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2016.09.07
 1936年 (昭和11年) 2月に、藤田嗣治は、「現代壁画論」を著わし、当時の日本社会における「壁画」の必要性や、メキシコ、フランスなどでの壁画作品の実情、自身の壁画制作の遍歴などを語っている。

 1930年代 (昭和5年~14年) は、画家・藤田嗣治にとって、画風が変化した大きな転換期であった。1931年から2年に及ぶ中南米への旅で藤田は、異文化を体験し、民俗的なものに眼差しを向けたが、その後、帰国した日本は、国家主義、民族主義の高まりを見せていた時代であった。
 「現代壁画論」の中で、藤田は、この時期の日本において、「吾等すべてが共力してこの壁画を作れば、結局国の富、国の誇りを作り出す訳である」 「多数の画家によって総べての形によって日本の到る処の地に名物の壁画を作成されん事を切望する次第である」 などと述べ、これからの時代の壁画の重要性を強調している。
 また、フランスで見たベルサイユ宮殿の壁画、シャヴァンヌの壁画、バチカン宮殿・システィーナ礼拝堂にあるミケランジェロの大壁画、メキシコで見たリベラ、オロスコの壁画などに刺激を受け、日本で自らが壁画制作に挑もうと意欲を燃やしたと思われる。
 帰国後、日本で藤田は、「大地」 (1934年10月、教文館・聖書館ビル《東京銀座》、1階ブラジルコーヒー宣伝室)、「春」 (1935年10月、大阪そごう本店、6階特別食堂)、「コロンバン天井画」 (1935年11月、銀座コロンバン《東京銀座》、2階サロン)、「ノルマンディーの春」 (1936年5月、関西日仏学館《京都》、貴賓室)、「野あそび 」(1936年9月、丸物百貨店《京都》、中2階喫茶室) を描いている。「春」以降の4作は、依頼主や設置場所に相応しいフランス風景と女性像を描いたヨーロッパ風の作品であった。
 しかし、藤田は「何れの日にか満足に近い大幅の出現を夢み切々と実行している次第である」 (「現代壁画論」より) と語っており、将来、大作壁画を実現させることに強い意欲を燃やし、これが翌年、1937年 (昭和12年) の大作 「秋田の全貌」 (後に「秋田の行事」と呼ばれる) へと繋がっていったと推察される。
 また、藤田は、「現代壁画論」の中で、観光への壁画の効果を挙げ、「各県の県庁、物産陳列場等 (著者注、公共施設等) にその土地の風俗、お祭り、ダンス、踊り、其他の産物等を壁画として描くことは紹介の最良策と考えて居る」 と言及しているが、この構想は、唯一、秋田の平野政吉が依頼した 「秋田の全貌」 (後の「秋田の行事」) の制作により、実現されているだけである。

 この頃、藤田の作品に魅せられ、藤田の才能を日本でいち早く認めた秋田の資産家・平野政吉との出会い、さらに平野の美術館建設構想への共鳴があり、美術館の壁を飾るための大作壁画 「秋田の全貌」 (後の「秋田の行事」) 制作へと繋がっていったのである。
 この大壁画に描かれた、秋田の四季の祭り、風俗、人々の冬の生活風景などを通じ、藤田が伝えたかったのは、日本古来の文化、伝統的な営みへの慈しみ、誇りであり、また、民族主義が高まっていたその時代に生きた日本人としての、アイデンティティーが込められたものと言えるだろう。

 この壁画制作までの間、藤田嗣治と依頼主・平野政吉は、美術館と壁画の構想を温め、平野は「奈良の正倉院や法隆寺を秋田に拵えるような気持ちで、私は美術館を建てて新しい名所にしたい」 (「平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男」より、 渡部琴子著 新潮社 2002年) と語り、意気投合した藤田と平野は、「秋田を第二の奈良に、そのためには、世界一大きい奈良の大仏に匹敵する、世界一大きな絵を描くことで二人の意見は一致した」 (「平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男」より、 渡部琴子著 新潮社 2002年) ということである。
 また、1936年 (昭和11年)7月 、藤田は美術館のイメージとして、「採光だけは洋風にとって、出来上り小さな三十三間堂といった感じのものにしたい」 (平野政吉美術館企画展の説明より) と語ったと伝えられている。
 さらに、平野家に保存されていた、1938年 (昭和13年) に着工され、その後、鉄材使用制限により断念された、最初の美術館の設計図を見ても、日本宮殿風の造りと、広い空間の展示室に自然光をふんだんに採り入れる採光形式の設計になっていることが分かっている。
 
 最初の美術館建設着手後、29年の歳月を経て、1967年 (昭和42年) に完成した秋田県立美術館・平野政吉美術館は、秋田県初の歴史的な美術館として、県民に大いに歓迎された。
 また、その建物は、「日本宮殿流れ式の屋根」、 「正倉院を意識したという高床式の構造」、 「高い天井から自然光を採り入れる形式」を備えており、「秋田の全貌」 (後の「秋田の行事」) が制作された当時に構想されたデザインが、特徴的に随所に見られる。
 また、それを美術館の創設者・平野政吉が何より誇りにしていたことが、残された新聞、雑誌の記事等から分かっている。

 「美術館の建物を宮殿づくり、ギリシャ式柱廊を折衷したのは、館内の採光を考えた末の、フジタと私のアイディアだ」
(「平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男」より、 渡部琴子著 新潮社 2002年)

 「別れるさい、(藤田は)美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光P1010425E7AA93800x600 平野政吉美術館の採光のとれる丸窓にしてくれといいました。宮殿造り、ギリシャ式柱廊へ例の丸窓をつけて画伯の心を忠実に生かしました」

(1985年《昭和60年》、あきた青年広論[(財)秋田青年会館発行]) ― (1966年《昭和41年》5月、美術館建設の報告のためパリ郊外の藤田嗣治を訪ねた時の様子を語って)



 民族主義が高まっていた昭和初期という時代の中で生まれた藤田嗣治の大壁画「秋田の全貌」 (後の「秋田の行事」) 、日本古来の建築様式に目を向け、この壁画のために考案されたデザインを持つ平野政吉美術館。この両者は、どちらも日本古来の文化、伝統に目を向け、この壁画に最も相応しい展示形式が追求されており、切り離すことの出来ない一体感を持つものである。
 この両者が醸し出す鑑賞空間を、後世の人々への貴い遺産として伝えるべきであると改めて思う。

P1010483 平野政吉美術館(6月)800x600











<参考記事>
平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶




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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



関連記事
平野政吉美術館の大展示室と藤田嗣治「秋田の行事」 ~ 永遠に

秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2016.09.07(06:00)|文化||TOP↑
    2014.07.20
     藤田嗣治(レオナール・フジタ)が1937年(昭和12年)に、制作依頼主である平野政吉の米蔵で描いた大壁画「秋田の行事」は縦3.65メートル、横20.5メートルの大きさがあり、制作当時世界一と言われた。しかも、藤田は僅か15日間という驚異的な速さ、集中力でこの作品を描き上げた。
     藤田は「秋田の全貌」を漏らさず描くという意図を持って壁画を描き、画面には昭和12年当時の秋田の冬の日常生活、夏の竿灯祭り、冬の太平山三吉神社の梵天祭り、秋の日吉八幡神社山王祭などが描かれ、人々の生き生きとした情景が描かれている。この作品が「秋田の行事」と呼ばれるようになったのは、昭和50年代以降のようである。昭和40年代発行の書籍の中では「秋田の四季」の名で呼ばれており、「秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図」と記述された図録もある。
     この作品の一番の魅力は、藤田嗣治が僅か15日間で描いたとは思われない作品の出来映え、完成度である。藤田嗣治は速筆で知られ、繊細な黒い線描も無念無想の気持ちで線の流れ出すままに任せて一気に描く技術を持っていたが、そのスピード感、才能が顕著に発揮されているのが「秋田の行事」である。パリ時代の乳白色の地肌、モノトーン調の画風から、中南米での2年間の旅行を経て、多彩な色彩表現へと変化し、帰国後、藤田は日本各地で「壁画」制作に挑んだが、その集大成と言えるのが「秋田の行事」である。P1010437_01 平野美術館(5月)-2
     画面に描かれた人々を見ると、人々は活気に溢れ、生き生きとしている。描かれている人物の一人一人が主役のように見える。藤田の鋭い観察力、卓越した表現力が感じられる。「秋田の行事」が展示されている平野政吉美術館の大展示室には藤田が二科展に出品した大作「北平の力士」(1935年)、「自画像」(1936年)なども展示されているが、それらと全く変わらぬ出来映えの大壁画である。
     また、画面には霊峰太平山、高清水丘陵の香爐木橋(こうろぎばし)、箱橇、馬橇、雪室、米俵、木材、酒樽、石油櫓などの秋田の風物が、まるで秋田人が描いたかと思わせるほど詳細に描かれている。
     藤田嗣治の作品には、子供を題材にしたものも多いが、「秋田の行事」の中でも雪室に遊ぶ子供たち、凧(秋田べらぼう凧)を持った子供などが表情豊かに生き生きと描かれいる。
     また、藤田は緻密な布の描写でも知られているが、「秋田の行事」においても、人々が纏う縞木綿、絣、野良着などの着物を細密に、布の質感まで描き出している。藤田は壁画制作の参考のために秋田の着物を多数購入していたとのことだ。

     「秋田の行事」の前に立つと観る者は迫力を感じる。この絵は床から約1.8メートルの位置に上げられ、両端が少しずつ迫り出して据えられている。上方からは柔らかな自然光が降り注いでいる。これらは、平野政吉が、藤田嗣治から直接助言を受けたことによるものだ。この事実は複数の新聞、書籍で明らかになっている。藤田がこの絵に最適な展示の仕方をアドバイスしてくれたのだ。(注)

     また、この「秋田の行事」を展示している平野政吉美術館の大展示室は、広さが550平方メートル、高さが4階ほどの18メートルある。この大空間で観ればこそ、迫力を感じることができるのだ。在り来たりの空間では、同様の迫力を感じることは不可能だろう。

     「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治作品の展示に最も相応しいのは、作品の寄贈者である平野政吉が、藤田嗣治の助言を忠実に守り、建てた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)であり、この美術館を末永く後世に伝えるべきである。



    <追記> 2013.9.1
     藤田嗣治(レオナール・フジタ)作の大壁画「秋田の行事」は、8月31日、合理的な理由もなく建設された、200メートル離れた場所にある新県立美術館に移設されました。
     「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史を刻んだ現秋田県立美術館(平野政吉美術館)で観るべき壁画であり、藤田が助言したこの大空間の展示室を末永く後世に伝えるべきである。


    (著者注) 新県立美術館での展示では、藤田が「壁画」のために助言した「自然光」による採光形式から、人工照明(LED)に変えられています。

    ( 本記事は、平野政吉美術館の大展示室で観た「秋田の行事」について、記述しております。 新県立美術館における展示は、印象が異なります。 )


    <参考記事>
    平野政吉美術館の移転理由は何か [新規構成]

    平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶


    <関連記事>
    レオナール・フジタ(藤田嗣治)に大壁画「秋田の行事」を描かせた、秋田の傑人・平野政吉
    藤田嗣治が語った「壁画」と、「秋田の行事」、平野政吉のトロッコ構想
    藤田嗣治「秋田の行事」の構図と奥行き感、臨場感
    藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」誕生 … 平野政吉と藤田嗣治の美術館建設構想
    藤田嗣治画伯の「秋田の行事」の移設は、「文化の創造」と言えるか?


    <注目記事>
    藤田嗣治、随筆の中で、歴史的建造物を遺すことの重要性を語る ~ 県立美術館・平野政吉美術館にも当て嵌まる言葉 ~
    新県立美術館建設のコンセプト、「『秋田の行事』を再開発地区のにぎわい創出につなげたい」は、藤田嗣治が否定!~「実に、絵画を、侮辱した話」
    地元紙、藤田嗣治の言葉を「秋田の行事」に誤用 ― 実は昭和10年銀座コロンバン天井画の完成の際に記述した文である。
    懸念される新県立美術館での藤田嗣治「秋田の行事」の展示
    「秋田の行事」引っ越し関連に、8996万円の県費支出 ― 果たして移転する必要があったのか。


    <お薦め記事>
    藤田嗣治の壁画「秋田の行事」が描かれた時代の背景 ~ 一体感を持つ「平野政吉美術館」






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2014.07.20(06:00)|文化||TOP↑
    2013.12.07
     藤田嗣治は、1931年から2年間に及ぶ南米、中米への放浪の旅を終え、帰国後、近代都市・パリとは異なる文化やメキシコでのリベラ、オロスコの壁画との出会いに強く影響を受け、土着的な民俗的なものに目を向けるようになり、パリ当時のモノトーン風の作品から色彩豊かなものへと作風が変化した。この変化には、ともに旅をしたマドレーヌ・ルクーの影響も大きいと言われ、失意の底にあったフジタを癒し、新たな創作へ向かわせたとされる。

     藤田が帰国後、最初に描いた壁画は、東京・銀座聖書館内のブラジル珈琲館宣伝所のために描いた大壁画「大地」(1934年)である。

     ブラジル・リオデジャネイロ郊外の光景をコーヒー園を遠景にして描き、帰国後間もないため、新鮮な中南米の印象を描き切っており、ブラジルの大地で働く人々や動物たちを色調豊かに表現した作品になっている。
     藤田はこの作品を、ちょうど1ヵ月、360時間という短時間で仕上げた。すべての取材、付き合いを断り、没頭して制作したことが、藤田の著した「現代壁画論」(1936年2月)に記されている。

     この作品は、藤田の壁画作品の中でも傑作中の傑作と言われたが、宣伝室の責任者であったブラジルのコーヒー王・アスムソン氏とともに1940年、ブラジルに渡り、その後、1970年に日本の企業によって、日本に買い戻され、現在は1996 年、広島県廿日市市に開館したウッドワン美術館の所有になっている。

     ブラジルで、アスムソン家の壁にはめ込む際、天地左右が切断されて、原画と異なるサイズ、雰囲気になったと言われるが、それでも随所に制作当時の面影がそのまま残っていると言う。また、画中の女性の何人かは愛妻・マドレーヌを描いたものとされる。エコール・ド・パリの哀愁と南米のパッションが融合、昇華した、藤田の画業の転換期の歴史的な作品である。
     
     この「大地」の制作には、藤田に命じられ、画家の東郷青児、鶴田宏、海老原喜之助が助手として加わり、重要でない背景の空や土の部分を描いたことを、鶴田らが、「《大地》日本へ還る」(1971年)のパンフレットの中で明らかにしている。

     藤田は、「壁画時代」の到来を夢み、大阪、京都、浜松、銀座など全国各地で、意欲的に壁画制作に挑み、いつの日にか大作壁画を描くことを強く望んでいた。このような時期に、藤田の絵に魅せられ、藤田の才能を見抜き着目した、秋田の美術品収集家・平野政吉との出会いがあり、大壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)の誕生へと向かって行ったのである。

     藤田は、「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)の制作において、そのスピードに挑み、「大地」を凌ぐ、15日間、174時間の速さで、幅20.5メートルの大作を完成させた。また、世界各地で壁画を観たフジタ自身が、「世界一の大きさ(当時)である」と自負した作品である。

     また、「大地」との関連で言うと、「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)の制作時においても、画家・鶴田宏が、制作助手として参加していることが分かっている。〈帰国後、藤田が寄寓した義兄・中村緑野の子息(藤田の甥)、蓮元啓文氏(当時、昭和女子大教授)が記述〉

     日本に帰国後、最初に描いた壁画「大地」、満足に近い大幅の実現を願っていた藤田が、最後に集大成として描いた秋田の風俗絵巻、「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)。

    「更に数をふんで何れの日にか満足に近い大幅の出現を夢み切々と実行している次第である」(「現代壁画論」より)

     二つの壁画は、藤田の画業の歴史、藤田が思い描いた「壁画時代」を辿るうえで、非常に重要な位置にある作品と言える。

       ………………………………………………………………………………

     新県立美術館の開館記念には、この壁画「大地」が展示されたが、1929年にパリで会員制サロンのために描いた壁画「花鳥図」の複製パネルの方がメディアで大きく宣伝され、あまり着目されなかったのは惜しまれることだ。

     客寄せの目玉作品にばかり意識を注いだ企画者側の姿勢が問われるだろう。しかも、パリまで出向き作ったこの壁画「花鳥図」のパネルは、著作権の関係で、美術館に常設展示すら出来ないとのことになっているとのことだ。

     美術館の建物と同様に、客寄せのために新しい物を作るより、今ある物、受け継いで来た物に光を当て、掘り下げて理解し、画家・藤田嗣治の画業の変遷、本質に思いを馳せることのほうが、美術を愛する心を育てることになるではないのか。



    <関連記事>
    藤田嗣治「秋田の行事」の魅力
    レオナール・フジタ(藤田嗣治)に大壁画「秋田の行事」を描かせた、秋田の傑人・平野政吉
    「壁画時代」の到来に意欲を燃やした藤田嗣治 ― 壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)は、藤田快心の壁画だった。


    <お薦め記事>
    藤田嗣治の壁画「秋田の行事」が描かれた時代の背景 ~ 一体感を持つ「平野政吉美術館」






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2013.12.07(05:50)|文化||TOP↑
    2013.11.27
     華やかであったエコール・ド・パリの時代が終焉を告げ、藤田は、自分の将来を何とかしたという思いから新たな画境を求め、パリを離れ、ラテンアメリカ各地に2年に及ぶ放浪の旅に出た。異文化体験と、メキシコでのリベラ、オロスコなどの壁画との出会いがあり、日本に戻った後、藤田は、土着的な、民俗的なものに目を向けるようになり、各地で壁画制作に挑むようになった。
     そして、当時の日本に「壁画の時代」を築くことに意欲を燃やし、1936年(昭和11年)2月に発表した「現代壁画論」の中で、

    「吾等すべてが共力してこの壁画の時代を作れば、結局国の富、国の誇りを作り出す訳である」
    「画其の物の本質的条件に適ひ、更に独創的な天分の発表と制作であったらばその画は永久に国宝として、国の誇りを増す……」
    (「現代壁画論」より)


    などと語っている。

     自分自身についても「更に数をふんで何れのP1010454 藤田嗣治日にか満足に近い大幅の出現を夢み切々と実行している次第である」(「現代壁画論」より)として、大作壁画の実現に並々ならぬ意欲を燃やしていたのである。

     翌1937年2月に描かれた、壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)は、実は藤田自身が夢みた、満足に近い大幅であり、快心作であることが窺われる。
     少なくても藤田が、快心の作を描くという意識のもとに描いた作品であることに違いない。

     藤田は、15日間、174時間というスピードで壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)を完成させた。これは、早筆で知られる藤田がそのスピードに挑んだものではあったが、必ずしも藤田の壁画制作にとって特別なことではなかった。
     日本に帰国後、最初に描いた壁画「大地」の制作日数と時間は、31日間、360時間であったし、メキシコで観たリベラは、壁画を1日に10メートル四方も描いていたことを藤田は知っていた。

     壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)完成後、藤田は「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」(1983年1月9日、朝日新聞「聞き書き・わがレオナルド藤田」)と興奮して語り、普段は決して口にすることのない酒を一杯飲み干し、祝ったと伝えられている。
     また、平野政吉には、天皇陛下が見に来られたら、こう説明申し上げてくれと詳細に指示したことが伝えられている。

    「壁画時代」の到来を願い、

    「多数の画家によって総べての形によって日本の到る処の地に名物の壁画を作成されん事を切望する次第である」(「現代壁画論」より)

    と藤田は語っている。
     平野政吉が、藤田に全国の道府県の壁画を描いてもらうことを夢みていたのと同様に、藤田は全国各地に名物になるような壁画が、多数の画家によって制作されることを夢み、願っていたのである。

     その藤田の夢が、日本で唯一、実現されたのがP1010455平野政吉 800x600、壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)であって、それを実現させたのが、唯一、秋田の美術品収集家・平野政吉であったのである。

     画家・藤田嗣治の夢、理想の実現に、財を惜しまず尽力した平野政吉の功績は、藤田嗣治(レオナール・フジタ)の画業と近代絵画史を語るうえで、非常に大きいものがある。

     そういった事実を直視すれば、平野政吉が藤田嗣治の助言を忠実に守り、建てたという平野政吉美術館は、二人が共同して建てた美術館であるわけで、この美術館から、平野政吉が命を懸け収集したコレクションを切り離し、移すという行為は、尋常でない行為に思えるのである。


            P1010180_03 平野政吉美術館(2013年6月)


    <関連記事>
    藤田嗣治が壁画制作において重視した「広い面積と遠距離から眺める事、下方から見上げる事の考慮」― それらが反映された平野政吉美術館

    「秋田の行事」の展示状況


    <お薦め記事>
    藤田嗣治の壁画「秋田の行事」が描かれた時代の背景 ~ 一体感を持つ「平野政吉美術館」






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    平野政吉美術館の大展示室と藤田嗣治「秋田の行事」 ~ 永遠に

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    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2013.11.27(05:30)|文化||TOP↑
    2013.11.01
     平野政吉は10代の頃から93歳で亡くなるまで生涯をかけ、その財力の全てを費やし、卓越した審美眼で美術品を収集し続けた。そのうち財団法人平野政吉美術館に寄贈された作品は601点で、藤田嗣治作品は101点である。P1010420門800x600.jpg

     大壁画「秋田の行事」は、藤田が平野政吉の求めに応じて、二人で構想した美術館を壁画で飾るために描かれた。縦365㌢、横2050㌢の大きさがあり、制作当時、世界一と言われた。
     昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、年中行事と祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで散りばめられている作品である。藤田はこの作品を描く前に「壁画は秋田の全ぼうが直ちに解る様に、あらゆる風俗又その時代的な意味に従って洩らさず描くつもりである」(「夕刊秋田」1936年《昭和11年》11月18日)と語っている。線と色彩の融合、生命力、パッションが画面に溢れており、藤田の特徴がよく表わされている。藤田はこの壁画を僅か15日で一気に描き上げ、完成後、「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたと言う。平野政吉は、藤田に当時の金額で、50万円支払ったとのことだ。当時、家が100軒建つ金である。

     「眠れる女」は藤田の4番目の妻、マドレーヌを描いた作品である。繊細な線描、乳白色の肌の秀作である。1936年(昭和11年)6月、マドレーヌが急死した際、経済的に困窮していた藤田が、平野政吉に売った作品であり、平野コレクションの藤田作品第一号となった。藤田はこの絵を夜行列車に乗り、一睡もせず、秋田に持ってきたという。平野の美術館建設構想を聞き、「お前、大丈夫だよ。ここは美術館になるんだからな」と言って秋田を去ったという逸話が残されている。
     この1936年(昭和11年)に平野政吉は、現在平野政吉美術館の大展示室に常設展示されている「北平の力士」、「五人女」、「カーニバルの後」など大作12点を、当時の金額5万円で購入している。当時、家が10軒建つ金額である。

     江戸時代から続く米穀商で、秋田県内有数の大地主の家に生まれた平野政吉は、経済的に恵まれ、月に米250俵分の金額を美術品収集に使うほどであったが、戦後の農地改革で多くの資産を失った。
     昭和42年、念願の美術館 (秋田県立美術館・平野政吉美術館) を建て終えた後、平野政吉は、秋田市大町にあった、藤田が「秋田の行事」を描き上げた米蔵や千秋矢留町の別邸などすべてを失った。
     現在、平野政吉を偲ぶものは、若い頃、藤田と二人で構想して以来、29年の歳月を費やし完成させた、P1010726 平野美術館(9-14)正倉院を模した高床式のこの美術館だけである。

     平野政吉は、その生涯をかけ、全財力を費やし、レオナール・フジタ(藤田嗣治)作品を始めとした貴重な美術品を収集した。
     美術館は、平野政吉の業績の集大成であり、秋田の地に収集した作品を恒久に保存、展示するために造られたものだ。
     平野政吉の業績を称える意味においても、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、平野コレクションとともに秋田の文化遺産として永く後世に伝えるべきである。


    <参考記事>
    平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶


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    秋田の文化遺産…平野政吉美術館
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    18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
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    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
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    階上の左右から見ることが出来なくなった。
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    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
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    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.11.01(17:57)|文化||TOP↑
    2013.09.17
     レオナール・フジタ(藤田嗣治)は、生涯を通じて、世界中を旅をして回った画家として知られている。随筆集「地を泳ぐ」(1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])P1010446 藤田嗣治(セピア)-2「日本の旅・世界の旅」の頁によれば、フジタは地球2周は回った語り、ヨーロッパでは、フランス以外に、スイスのローザンヌ、パール、チューリッヒ、イタリアのミラノ、イギリス、ドイツ、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル…を訪れており、中南米では、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、チリ、ぺルー、メキシコ、キューバ、パナマ。アメリカではニューヨーク、ロサンゼルスなど各地に立ち寄っている。国内では、岐阜、長野、金沢、新潟、佐渡、秋田、青森、沖縄…など各地。さらにアジアでは中国の北京や香港、シンガポール、セイロン(現スリランカ)、アフリカではエジプトのカイロなども訪れている。
     フランスでレジオン・ドヌール勲章、ベルギーでレオポルド一世勲章などを受賞し、メキシコで大統領の歓迎を受けるなど、近代の日本人画家としては、唯一の世界で認められた画家と言えるだろう。
     そのフジタが、縦3.65メートル、横20.5メートルもある、巨大な壁画を残した地は、世界中で日本の一地方都市、秋田だけである。果たして秋田だけが、画家・フジタを魅了した土地であったのだろうか。フジタは壁画にどんな意図を持ったのだろうか。

     フジタは、書き残した随筆の中で、新潟、青森、沖縄など、行く先々の地で、その土地を称え、賛美する言葉を残している。

     例…新潟について「好きな町である。好きな美人の本場である」(随筆集「地を泳ぐ」1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])と語り、青森では「津軽海峡に光る夕日はパノラマの絶景であり、私は再び遊びたいと決心した」(随筆集「地を泳ぐ」1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])などと語っている。沖縄では「沖縄は龍宮であり夢の国である」(随筆集「地を泳ぐ」1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])などと語っている。

     では、何故秋田に巨大壁画が、誕生したのか。それには、秋田市に住む、希有な才能、桁外れの個性を持った、傑人、平野政吉の存在と彼との出会いがあったことに相違ないだろう。

     平野政吉は、明治28年(1895年)、秋田市大町で江戸時代から続く米穀商の家に生まれた。P1010451 平野政吉(セピア)経済的に恵まれ、子供の頃、画家を志した時期もあったが、十代の頃から美術品を収集していた。その一方で、秋田県内で初めて、オートバイやモーターボートに乗るなど新しもの好き青年であった。やがて、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭、操縦中に東京湾に墜落し、九死に一生を得る経験もしたと言う。破天荒で豪快な人物であったとして知られている。
     藤田とは、昭和4年の個展で初めて藤田の絵に出会い、昭和9年の二科展会場で初めて会ったという。
     自信に満ち溢れた人柄とその作品に魅了され、その後、平野は藤田作品のコレクターとなり、藤田美術館の建設構想を温めていったという。
     昭和11年、藤田の妻、マドレーヌが急死した際、平野は困窮していた藤田に葬儀費用を工面したり、親身になり慰め、その時、藤田美術館の建設を申し出て、傷心の藤田をとても喜ばせたという。
     藤田は平野の要請を受け、美術館の壁に飾る壁画を制作する意を伝え、「秋田の全貌」を題材にした壁画の制作へと向かっていったのである。

     その後、半年掛けて藤田は、秋田を取材し、構想を練り上げ、昭和12年2月21日にいよいよ制作を開始し、3月7日、後に「秋田の行事」と呼ばれる、縦3.65メートル、横20.5メートルの大壁画を一気に完成させたのである。制作時間は、174時間であった。
     秋田の、自然、風俗、祭り、産業、歴P1010240_03 「秋田の行事」-梵天(800x600)史…… 時代の空気、人々の息遣いまで描き切ったこの大作に平野は、その報酬として、当時の金で、50万円を支払ったという。当時、家が100件買える金額である。平野は、美術品収集に、金に糸目をつけず、月に米俵250表分をもつぎ込んだというが、この平野でなければ、この大作を藤田に描かせることは出来なかっただろう。

     藤田は、秋田を題材に壁画を描き切ったが、藤田が求めたもの、絵を通して伝えたかったものは、日本そのものではなかったか。秋田の人々の暮らし、風景、祭りの中に、日本を見出だしたのではないか。
     エコール・ド・パリの一員として一世を風靡したパリを離れ、中南米への放浪の旅の末、非ヨーロッパ的世界に眼差しを向け、画題を求め、辿り着いた作品が「秋田の行事」であった。その誕生には、藤田の才能を誰よりも見抜いていた、秋田の美術品コレクター、平野政吉との出会いがあったのだ。

     一方で、平野政吉は美術館建設に己の生涯を懸けた人でもあった。
     昭和30年に開催された「平野コレクション展」(朝日新聞主催)の図録によると、「子供の頃から美術館の建設を専念に念願として参りました」とある。
     実際に、「秋田の行事」完成の翌年、昭和13年には、美術館建設に着手したが、戦時中の鉄材の使用制限のため、止む無く中断となっている。
     また、昭和31年発行の雑誌の中では「『一日も早く美術館をつくり日本のために寄付する』のがいまの念願」(1956年2月P1010180_03 平野政吉美術館(2013年6月)26日発行、アサヒグラフ)と心境を語っている。
     美術館建設への情熱を一貫して持ち続け、最初の建設着手以来、29年の歳月の末完成させた、念願の秋田県立美術館(平野政吉美術館)開館の日(1967年5月5日)、平野は涙を流し喜んだことが家人によって伝えられている。

     この傑出した美術品コレクターで、藤田を世界一の画家であるとして畏敬の念を持っていた平野政吉との物心両面に及ぶ深い交友と強い信頼の絆が、藤田の心を揺り動かし、平野が表明した美術館建設構想を受け、美術館の壁に飾る壁画の制作を決意させたことは間違いない。

     平野政吉美術館は、生涯を美術館建設に捧げた平野政吉の供養の碑であり、フランス・ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母礼拝堂)に眠るレオナール・フジタの、遠い秋田に在る壁画、「秋田の行事」への思い、そして秋田、日本への思いを受け止める碑でもある。

     この美術館を本来の姿に戻すべきであると強く訴えたい。


    <参考記事>
    平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶


    <関連記事>
    平野政吉の業績 … 平野コレクションと美術館
    平野政吉のエピソード
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    平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 1 … 出会い
    美術館建設宣言と「眠れる女」… 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 2
    大壁画「秋田の行事」誕生、美術館の壁画に … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 3
    18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
    最後の作品「平和の聖母礼拝堂」、永遠の別れ、永遠の友情 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 5
    藤田嗣治と平野政吉の友情そのものが秋田の財産、その証である現県立美術館(平野政吉美術館) … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 6
    藤田嗣治が語った「壁画」と、「秋田の行事」、平野政吉のトロッコ構想
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    (2015年9月)



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    以前より展示室が狭くなった。
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    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




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     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.09.17(04:40)|文化||TOP↑
    2013.09.01
    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている「秋田の行事」の展示状況
     この壁画のために設計された展示室は、上方から自然光が入り、大壁画の雄大さ、迫力を堪能できるゆったりとしたスペースである。

    秋田の行事
    (http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/leonardfoujita_tabi/33710.html)


    屋根に付けられた丸窓から自然光を館内に採り入れている状況
     なだらかな曲線の壁面に反射しながら、大壁画「秋田の行事」に柔らかく自然光が降り注いでいる。
    平野政吉美術館の内部(天井)-2
    (http://weekly-akita.net/?day=20100311)


    春日の平野政吉美術館の風景

    P1010002_06 平野政吉美術館(2013年4月)


    P1010022 平野政吉美術館(2013年4月)


    P1010018 平野政吉美術館(2013年4月)


     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、藤田嗣治と出会い、藤田作品のコレクターとなった平野政吉の夢が実現した美術館である。

     藤田はこの美術館のために、巨大壁画「秋田の行事」を描き、床から6尺(1.8メートル)上げ、両端を少しせり出して展示するよう指示した。
     そして、美術館の採光を、ランスのフジタ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)と同じ、自然光を採り入れた形式にしてくれと、平野に伝えた。

     今、フジタは、自ら設計したフジタ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)で静かに永遠の眠りについている。

     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、平野政吉の夢の美術館であり、フランスでその生涯を終えたレオナール・フジタ(藤田嗣治)の尊い思い、祈りが込められた美術館である。

     この美術館は、後世の人々に末永く伝えるべき美術館である。

     この美術館を閉館にすることは、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史に幕を閉じることと同じである。

     そのような愚かなことはすべきでないだろう。



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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
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