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2011.07.27
 秋田の文化遺産として、平野政吉美術館(秋田県立美術館)と平野政吉が残したレオナール・フジタ(藤田嗣治)の作品を取り上げたい。
 明治28年、秋田の米穀商に生まれた平野政吉は、若い頃、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭し、操縦中に東京湾に墜落して九死に一生を得るなど、破天荒な人物であったことが知られているが、昭和9年、美術展で藤田嗣治に出会い、藤田とその作品に衝撃を受け、その後、藤田作品のコレクターとなり、藤田を物心両面で支えるなど、交友を深めた。P1010415平野美術館800x600.jpg
 昭和11年、秋田を訪れた藤田に秋田の全貌を描いた壁画を描いてもらうこととなり、翌12年、藤田は僅か15日で、縦365㌢、横2050㌢の当時、世界一と言われた大壁画「秋田の行事」を完成させた。
 その後、平野政吉と藤田嗣治は秋田に「新しい奈良」を作ることで意気投合し、大壁画「秋田の行事」を東大寺の大仏に匹敵するものとし、正倉院を模した美術館を秋田に造ることを構想した。平野政吉は、昭和13年美術館建設に着手するが、戦時中の鉄材の使用制限、戦後の農地改革などで多くの資産を失ったことなどにより断念され、昭和42年、平野政吉の私財、県民の寄付金、県費、国庫補助金によって、平野政吉、藤田嗣治念願の美術館が29年の歳月を経て完成された。
 秋田市の中心部にある千秋公園のお堀を前景にしたこの美術館は、日本宮殿流れ式と言われる特徴的な屋根の形をしており、自然光を取り入れるための丸窓が付けられている。平野政吉によると、この採光窓は、藤田の助言によるものであり、平野はその助言を忠実に守ったと語っている。その事実は、複数の新聞、雑誌の記事に残されている。

 また、平野政吉は、昭和41年、美術館建設の報告のためパリ郊外、ヴィリエ・ル・バークルの藤田の家を訪れているが、その際、「秋田の行事」の展示は床から6尺(約1.8㍍)の位置に上げること、両端を少しずつせり出して据え付けることなどを藤田に直接、助言されている。藤田からアドバイスされた最高の展示になっていることがわかる。

 平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、大壁画「秋田の行事」を保存、展示し、鑑賞するために造られている。空間の広がりと藤田が平野に託したランスの「平和の聖母礼拝堂」と同様の柔らかな自然光が大壁画に降り注いでいる(注)。この美術鑑賞空間は、これからも秋田の文化遺産として後世に残していくべきである。


(注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。



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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2011.07.27(05:00)|文化||TOP↑
    2011.11.15
     1966年(昭和41年)、レオナール・フジタ(藤田嗣治)は自らの画業の集大成として、フランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」の制作に取り組んでいた。フジタは建物の設計、壁画、ステンドグラス、庭石の配置、彫刻などを自らの手で制作した。
     フジタは1964年(昭和39年)、南フランスのニース郊外にある画家マチスが建て、眠るロザリオ礼拝堂を訪れている。
     フジタが作ろうとした礼拝堂も自らが永眠する場所であったに違いない。
     1966年(昭和41年)6月、礼拝堂の建物は完成した。フジタは直ぐ礼拝堂の壁を飾るフレスコ画の制作に取りかかった。フレスコ画制作の作業は過酷を極めた。壁に塗った漆喰が乾く前に絵の具で描き、仕上げるため、正確さ、素早さが要求された。フジタは79歳にしてこの技法に初めて挑み、作業は早朝から深夜に及ぶこともあった。
     フジタ芸術の集大成であるフレスコ壁画は、8月31日完成した。キリストの誕生、復活などの場面がフジタの繊細な技法で描かれている。
     過酷なフレスコ画制作の作業は、フジタの体を蝕んでいた。
     フジタは12月にパリの病院に入院、翌年10月、スイス、チューリヒの病院に転院、1968年(昭和43年)1月29日、フジタは膀胱がんのためチューリヒの病院で81歳の生涯を閉じた。

     訃報を聞いた平野政吉は、フジタの葬儀に参列するため、フランスに向かった。葬儀は、2月3日、ランスのノートルダム大聖堂で行われた。平野政吉は紋付羽織袴の正装で参列した。フジタとの永遠の別れとなった。
     フジタの遺体はランスの礼拝堂に安置された後、1971年(昭和46年)パリ郊外ヴィリエ・ル・バークルの墓地に埋葬されたが、その後、1998年(平成10年)、君代夫人がフジタの日記を発見し、その中で「終生の舞台とした(フジタ)礼拝堂の中で眠るつもりだ」と記していたことが確認され、2003年(平成15年)10月6日、再び「フジタ礼拝堂」(平和の聖母礼拝堂)に移送され、埋葬された。

     フジタとの約束であった美術館の建設を成し遂げた平野政吉は、P1010032_01 平野美術館窓 秋 800x600.jpgフジタとの別れから21年後、1989年(平成元年)3月13日、93歳の生涯を閉じた。「男子一生の命懸けて懸けがいのある男とめぐり会えた」と家人に言い残し、永眠した。フジタとの永遠の友情の証であるコレクションと美術館を残し、旅立った。

     美術館は、1966年(昭和41年)の訪問の際、フジタからアドバイスされた通り、平和の聖母礼拝堂と同じ採光の形式が取られており、フジタが、平野政吉と秋田のために描いてくれた大壁画「秋田の行事」には柔らかく自然光が降り注いでいる(注)。平野政吉美術館と収蔵されている平野政吉のコレクションは、秋田の文化遺産であり、日本の文化遺産である。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。


    ランス フジタ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)の画像(Google画像検索)

    「秋田の行事」の画像(Google画像検索)


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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

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  • 2011.11.15(01:35)|文化||TOP↑
    2012.02.01
     世界の絵画史上に名を残した藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品は、「乳白色の肌」と呼ばれる透明感溢れる肌の描写、日本画の面相筆(めんそうふで)を使って描いた美しく流れるような黒い輪郭線の線描などに独創的な特徴がある。
     「乳白色の肌」の誕生については、浮世絵の鈴木春信、喜多川歌麿などの画から着想し、「肌という最も美しいマチエールを表現してみんと決意した」とのだと言う。
     最近、この「乳白色」は、ベビーパウダーを使って出していたことが解明されている。
     また、藤田の線描の技法は、日本人であるが故に日本の筆P1010446 藤田嗣治(セピア).jpgと日本の墨を油絵に使ったもので、「無念無想の気持ちで線の流れ出すままに任せて」描いたのだと言う。
     東洋の神秘と言われた藤田嗣治の作品は、それ以前の洋画にない独創的なものとして、ヨーロッパ美術界で高く評価されたが、画面の中でヨーロッパと日本の文化が融合したものであった。

     藤田嗣治作品のコレクターであった平野政吉は、藤田嗣治作品の魅力について、
    「西洋の光線画の色と、東洋の墨の線を女子(おなご)の肌みたいな独特の画面に融和して、無駄な線と色のない緊張感を創り出したこと」
    「空白の部分の緊張感と、どことなく神秘的な雰囲気を醸し出す表現力、これが世界画壇の雄、藤田嗣治の魅力だろう」
    ―と語っている。
     藤田嗣治の才能を誰よりも認め、長年の交友があった平野政吉ならではの、的確で分かりやすい表現による藤田嗣治作品の紹介と言えるだろう。

     藤田嗣治の才能を見抜く審美眼を持った秋田の先人がいたことに、秋田県人として誇りを持ちたい。
     そして、この希有な先人が建てた美術館を、そのコレクションとともに、未来に受け継ぎ、伝えていきたいものである。


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  • 2012.02.01(23:35)|文化||TOP↑
    2012.03.09
     藤田嗣治(レオナール・フジタ)が生前書いた日記が、3年前(2009年)に亡くなった君代夫人の相続人から、藤田の出身校、東京芸術大学に寄贈され、研究が進められていると言う。日記は、1930年から亡くなった1968年までのものがあり、一部を除きほとんど存在が知られなかった貴重な資料だとのことだ。秋田の藤田嗣治ファンとしては、藤田嗣治作品の収集家でパトロンであった平野政吉との交友に関する知られざる事実や大壁画「秋田の行事」制作当時の藤田の心象風景、壁画制作の意図などについて、1967年(昭和42年)に建設された現県立美術館(平野政吉美術館)の建設に纏わる新事実などについてが書き残されているかも知れないと期待感を持っている。P1010213 平野美術館(2月)800x600
     平野政吉との交友の詳細、美術館建設の経緯や藤田の関わりがさらに具体的に分れば、現県立美術館(平野政吉美術館)の歴史的建造物としての価値が一層高まるに違いないと思われる。この美術館から魂である藤田嗣治の作品を引き離すことなど考えられないはずである。
     藤田嗣治が書き残した「随筆集 地を泳ぐ」(1942年、書物展望社[復刻:1984年、講談社])の中に、秋田について記述された部分がいくつかある。
     「裏日本」の頁では、昭和10年(1935年)夏に秋田を初めて旅行で訪れたことが語られ、秋田、男鹿半島、大館、十和田湖、毛馬内を旅したことが書かれている。「私の義兄の生国だけに殊更に興味が持てる」「名物のショッツル鍋を美味しいと思った」「(この旅行を通じて)裏日本が好きになった」などと記述されている。
     「雪に埋もれる町」の頁では、横手、大曲から角館を訪れ、冬の日を送ったことについて書かれ、「想い出に深い頁を綴じ込んだ」と語っている。 
     「吾が国の伝統の美しさ、郷土の質朴さ、清く澄み透すこの人々の心は、戸外の一丈にも余る雪の肌の様に純であり貴いのである」
     「嬉しい吾が郷土にのみ誇り得る、純情さがこの厚い雪のお蔭で埋れて、当分は保有されて行くであろう」
    と語り、旅の宿での人々の心温まるもてなし、純情さ、質朴さ、城下町の名残りの匂わす風情などが東京から来た私の心の真髄を休ませてくれた、思い出深い旅であったと記している。

     今後、研究が進む藤田の日記の中にも、藤田の生涯の中での秋田との関わりや「随筆集 地を泳ぐ」に記述されているような「秋田への思い」が書き残されているのかも知れない。
     藤田嗣治が描いた大壁画「秋田の行事」を収蔵している平野政吉美術館(現秋田県立美術館)も藤田嗣治と秋田との関わりを現代に伝える貴重な文化遺産であり、末永く後世に伝えるべきである。




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    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2012.03.09(22:45)|文化||TOP↑
    2013.04.24
     1968年2月、パリに一人の日本人が訪れた。日本古来の伝統的な紋付羽織袴姿で訪れたその人こそ、秋田からレオナール・フジタ(藤田嗣治)の葬儀に参列するためにやってきた平野政吉であった。フジタの葬儀はランスのノートルダム大聖堂で盛大に執り行われた。1934年(昭和9年)、東京都内の美術展で出会って以来、交友のあった平野政吉と藤田嗣治にとって最後の別れとなった。平野政吉は、藤田嗣治作品の収集家、パトロンとして、フランスにおいても有名であり歓迎された。
     「もう、先生の作品を購入できなくなった」 平野政吉は悲しみ嘆いた。
     平野政吉はその2年前、1966年(昭和41年)5月に、パリ郊外のヴィリエ・ル・バークルに住むフジタを訪ねていた。二人にとって念願であった美術館建設の報告のためであった。平野は完成する美術館へフジタを招待したが、高齢を案じた夫人の反対で実現しなかった。しかし、その時、美術館の採光形式について、貴重なアドバイスをしてもらっていた。
    blog_import_4f812ceaf1b1a 平野政吉美術館の採光-2
     「美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ」注、7月29日の記事参照
     フジタは、自らの画業の集大成としてランスで「平和の聖母礼拝堂」の設計、壁画、彫刻、ステンドグラスの制作に取り組んでいたが、美術館の採光をその「平和の聖母礼拝堂」と同じ採光の形式にするよう、平野政吉に託したのであった。
     「私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ」 平野政吉はそう語っている。注、7月29日の記事参照
     フジタの遺体は紆余曲折の末、2003年より、ランス「平和の聖母礼拝堂」に移され、永眠している。「終生の舞台とした(フジタ)礼拝堂の中で眠るつもりだ」と記した日記が発見されたためであった。 (注、11月15日の記事参照
     フジタが永遠の眠りにつく「平和の聖母礼拝堂」と平野政吉美術館はフジタの助言によって、思いが結びつき、平野政吉美術館の丸窓から降り注ぐ自然光は、レオナール・フジタ(藤田嗣治)の尊い、最後の思い、願いそのものであるように著者には感じられる。


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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
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    階上の左右から見ることが出来なくなった。
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    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
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    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
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    (2014年2月)





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    (2013年8月31日)




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     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.04.24(03:07)|文化||TOP↑
    2013.04.28
     「私と別れ際、藤田は『美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ』と注文をつけた。私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ。藤田は、スケッチをくれた。これが最後の対面となった。」

     平野政吉は、1983年(昭和58年)1月12日に朝日新聞に掲載された「聞き書き わがレオナルド藤田」の中で、1966年(昭和41年)に美術館建設の報告を兼ね藤田に会いに行った際の様子を語り、藤田にそう助言されたと語っている。P1010425E7AA93800x600 平野政吉美術館の採光
    また、秋田県内の財団法人発行の雑誌の中で平野政吉の対談が掲載されており、同様に、藤田を訪ねた際、美術館の屋根はランス礼拝堂のような採光のとれる丸窓にしてくれと言われ、宮殿造りのギリシャ式柱廊の美術館に丸窓をつけて画伯の心を忠実に表わしたと語っている。

     藤田は、自らの画業の集大成として、フランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」の設計、壁画、ステンドグラスの制作に取り組み、1966年(昭和41年)10月に完成させているが、その壁画制作に入る直前に、平野政吉は藤田に会い、美術館の採光方式をアドバイスされている。

     1968年(昭和43年)1月29日、藤田はスイス、チューリッヒで亡くなったが、今は生前の藤田の希望により、自ら設計したランスの「平和と聖母礼拝堂」に眠っている。

     平野政吉は、美術館をこのランスの「平和と聖母礼拝堂」と同じ採光形式にするよう、藤田に託されており、現在の平野政吉美術館は、ランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じる、藤田の魂が込められていると言える。また、「平和の聖母礼拝堂」に描かれた藤田の最後の大作であるフレスコ壁画と同じように、大壁画「秋田の行事」には柔らかな自然光が降り注がれている(注)。

     世界で最も著名な日本人画家、レオナール・フジタ(藤田嗣治)が深く関わった建築物は、フランス、ヴィリエ・ル・バークルの住居兼アトリエであった「メゾン・アトリエ・フジタ」、ランスの「平和の聖母礼拝堂」があるが、日本では、平野政吉美術館以外にあるだろうか。  

     平野政吉美術館(秋田県立美術館)は、千秋公園の緑に溶け込んだ佇まいの中に平野政吉とレオナール・フジタ(藤田嗣治)の交友の歴史を示しており、貴重な秋田の文化遺産として後世に残すべきである。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。


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    藤田嗣治が助言した平野政吉美術館の採光
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    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の丸窓について
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    美術館と自然光について



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    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
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    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




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     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
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  • 2013.04.28(17:05)|文化||TOP↑
    2013.09.17
     レオナール・フジタ(藤田嗣治)は、生涯を通じて、世界中を旅をして回った画家として知られている。随筆集「地を泳ぐ」(1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])P1010446 藤田嗣治(セピア)-2「日本の旅・世界の旅」の頁によれば、フジタは地球2周は回った語り、ヨーロッパでは、フランス以外に、スイスのローザンヌ、パール、チューリッヒ、イタリアのミラノ、イギリス、ドイツ、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル…を訪れており、中南米では、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、チリ、ぺルー、メキシコ、キューバ、パナマ。アメリカではニューヨーク、ロサンゼルスなど各地に立ち寄っている。国内では、岐阜、長野、金沢、新潟、佐渡、秋田、青森、沖縄…など各地。さらにアジアでは中国の北京や香港、シンガポール、セイロン(現スリランカ)、アフリカではエジプトのカイロなども訪れている。
     フランスでレジオン・ドヌール勲章、ベルギーでレオポルド一世勲章などを受賞し、メキシコで大統領の歓迎を受けるなど、近代の日本人画家としては、唯一の世界で認められた画家と言えるだろう。
     そのフジタが、縦3.65メートル、横20.5メートルもある、巨大な壁画を残した地は、世界中で日本の一地方都市、秋田だけである。果たして秋田だけが、画家・フジタを魅了した土地であったのだろうか。フジタは壁画にどんな意図を持ったのだろうか。

     フジタは、書き残した随筆の中で、新潟、青森、沖縄など、行く先々の地で、その土地を称え、賛美する言葉を残している。

     例…新潟について「好きな町である。好きな美人の本場である」(随筆集「地を泳ぐ」1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])と語り、青森では「津軽海峡に光る夕日はパノラマの絶景であり、私は再び遊びたいと決心した」(随筆集「地を泳ぐ」1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])などと語っている。沖縄では「沖縄は龍宮であり夢の国である」(随筆集「地を泳ぐ」1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])などと語っている。

     では、何故秋田に巨大壁画が、誕生したのか。それには、秋田市に住む、希有な才能、桁外れの個性を持った、傑人、平野政吉の存在と彼との出会いがあったことに相違ないだろう。

     平野政吉は、明治28年(1895年)、秋田市大町で江戸時代から続く米穀商の家に生まれた。P1010451 平野政吉(セピア)経済的に恵まれ、子供の頃、画家を志した時期もあったが、十代の頃から美術品を収集していた。その一方で、秋田県内で初めて、オートバイやモーターボートに乗るなど新しもの好き青年であった。やがて、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭、操縦中に東京湾に墜落し、九死に一生を得る経験もしたと言う。破天荒で豪快な人物であったとして知られている。
     藤田とは、昭和4年の個展で初めて藤田の絵に出会い、昭和9年の二科展会場で初めて会ったという。
     自信に満ち溢れた人柄とその作品に魅了され、その後、平野は藤田作品のコレクターとなり、藤田美術館の建設構想を温めていったという。
     昭和11年、藤田の妻、マドレーヌが急死した際、平野は困窮していた藤田に葬儀費用を工面したり、親身になり慰め、その時、藤田美術館の建設を申し出て、傷心の藤田をとても喜ばせたという。
     藤田は平野の要請を受け、美術館の壁に飾る壁画を制作する意を伝え、「秋田の全貌」を題材にした壁画の制作へと向かっていったのである。

     その後、半年掛けて藤田は、秋田を取材し、構想を練り上げ、昭和12年2月21日にいよいよ制作を開始し、3月7日、後に「秋田の行事」と呼ばれる、縦3.65メートル、横20.5メートルの大壁画を一気に完成させたのである。制作時間は、174時間であった。
     秋田の、自然、風俗、祭り、産業、歴P1010240_03 「秋田の行事」-梵天(800x600)史…… 時代の空気、人々の息遣いまで描き切ったこの大作に平野は、その報酬として、当時の金で、50万円を支払ったという。当時、家が100件買える金額である。平野は、美術品収集に、金に糸目をつけず、月に米俵250表分をもつぎ込んだというが、この平野でなければ、この大作を藤田に描かせることは出来なかっただろう。

     藤田は、秋田を題材に壁画を描き切ったが、藤田が求めたもの、絵を通して伝えたかったものは、日本そのものではなかったか。秋田の人々の暮らし、風景、祭りの中に、日本を見出だしたのではないか。
     エコール・ド・パリの一員として一世を風靡したパリを離れ、中南米への放浪の旅の末、非ヨーロッパ的世界に眼差しを向け、画題を求め、辿り着いた作品が「秋田の行事」であった。その誕生には、藤田の才能を誰よりも見抜いていた、秋田の美術品コレクター、平野政吉との出会いがあったのだ。

     一方で、平野政吉は美術館建設に己の生涯を懸けた人でもあった。
     昭和30年に開催された「平野コレクション展」(朝日新聞主催)の図録によると、「子供の頃から美術館の建設を専念に念願として参りました」とある。
     実際に、「秋田の行事」完成の翌年、昭和13年には、美術館建設に着手したが、戦時中の鉄材の使用制限のため、止む無く中断となっている。
     また、昭和31年発行の雑誌の中では「『一日も早く美術館をつくり日本のために寄付する』のがいまの念願」(1956年2月P1010180_03 平野政吉美術館(2013年6月)26日発行、アサヒグラフ)と心境を語っている。
     美術館建設への情熱を一貫して持ち続け、最初の建設着手以来、29年の歳月の末完成させた、念願の秋田県立美術館(平野政吉美術館)開館の日(1967年5月5日)、平野は涙を流し喜んだことが家人によって伝えられている。

     この傑出した美術品コレクターで、藤田を世界一の画家であるとして畏敬の念を持っていた平野政吉との物心両面に及ぶ深い交友と強い信頼の絆が、藤田の心を揺り動かし、平野が表明した美術館建設構想を受け、美術館の壁に飾る壁画の制作を決意させたことは間違いない。

     平野政吉美術館は、生涯を美術館建設に捧げた平野政吉の供養の碑であり、フランス・ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母礼拝堂)に眠るレオナール・フジタの、遠い秋田に在る壁画、「秋田の行事」への思い、そして秋田、日本への思いを受け止める碑でもある。

     この美術館を本来の姿に戻すべきであると強く訴えたい。


    <参考記事>
    平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶


    <関連記事>
    平野政吉の業績 … 平野コレクションと美術館
    平野政吉のエピソード
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    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
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    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2013.09.17(04:40)|文化||TOP↑
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    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
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