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2011.06.02
 平野政吉は10代の頃から93歳で亡くなるまで生涯をかけ、その財力の全てを費やし、卓越した審美眼で美術品を収集し続けた。そのうち財団法人平野政吉美術館に寄贈された作品は601点で、藤田嗣治作品は101点である。

 大壁画「秋田の行事」は、藤田が平野政吉の求めに応じて、二人で構想した美術館を壁画で飾るために描かれた。縦365㌢、横2050㌢の大きさがあり、制作当時、世界一と言われた。
 昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、年中行事と祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで散りばめられている作品である。藤田はこの作品を描く前に「壁画は秋田の全ぼうが直ちに解る様に、あらゆる風俗又その時代的な意味に従って洩らさず描くつもりである」(「夕刊秋田」1936年《昭和11年》11月18日)と語っている。線と色彩の融合、生命力、パッションが画面に溢れており、藤田の特徴がよく表わされている。藤田はこの壁画を僅か15日で一気に描き上げ、完成後、「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたと言う。平野政吉は、藤田に当時の金額で、50万円支払ったとのことだ。当時、家が100軒建つ金である。

 「眠れる女」は藤田の4番目の妻、マドレーヌを描いた作品である。繊細な線描、乳白色の肌の秀作である。1936年(昭和11年)6月、マドレーヌが急死した際、経済的に困窮していた藤田が、平野政吉に売った作品であり、平野コレクションの藤田作品第一号となった。藤田はこの絵を夜行列車に乗り、一睡もせず、秋田に持ってきたという。平野の美術館建設構想を聞き、「お前、大丈夫だよ。ここは美術館になるんだからな」と言って秋田を去ったという逸話が残されている。
 この1936年(昭和11年)に平野政吉は、現在平野政吉美術館の大展示室に常設展示されている「北平の力士」、「五人女」、「カーニバルの後」など大作12点を、当時の金額5万円で購入している。当時、家が10軒建つ金額である。

 江戸時代から続く米穀商で、秋田県内有数の大地主の家に生まれた平野政吉は、経済的に恵まれ、月に米250俵分の金額を美術品収集に使うほどであったが、戦後の農地改革で多くの資産を失った。
 昭和42年、念願の美術館を建て終えた後、平野政吉は、秋田市大町にあった、藤田が「秋田の行事」を描き上げた米蔵や千秋矢留町の別邸などすべてを失った。
 現在、平野政吉を偲ぶものは、若い頃、藤田と二人で構想して以来、29年の歳月を費やし完成させた、正倉院を模した高床式のこの美術館だけである。

 平野政吉は、その生涯をかけ、全財力を費やし、レオナール・フジタ(藤田嗣治)作品を始めとした貴重な美術品を収集した。
 美術館は、平野政吉の業績の集大成であり、秋田の地に収集した作品を恒久に保存、展示するために造られたものだ。
 平野政吉の業績を称える意味においても、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、平野コレクションとともに秋田の文化遺産として永く後世に伝えるべきである。



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美術館と自然光 … 1
美術館と自然光 2 … 軽井沢千住博美術館の場合




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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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  • 2011.06.02(14:08)|文化||TOP↑
    2011.09.03
       P1010455 平野政吉 720x540.jpg   P1010452 藤田嗣治 720x540.jpg
     
     明治28年(1895年)、秋田市大町で江戸時代から続く米穀商の家に生まれた平野政吉は、若い頃、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭、操縦中に東京湾に墜落し、九死に一生を得るなど、破天荒な人物であったことが知られているが、経済的に恵まれ、十代の頃から美術品を収集していた。
     藤田嗣治は、明治19年(1886年)、東京府牛込区(現在の新宿区)新小川町で陸軍軍医の家に生まれ、若い頃から画家を志し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業後、フランスに渡り、パリ、モンパルナスに住み、エコール・ド・パリの一員としてアメデオ・モディリアーニ、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーなどと交友し、活躍、サロン・ドートンヌの審査員になるなどの名声を得た。藤田ならではのきめ細かで、美しい線描の技法、「乳白色の肌」「グラン・フォン・ブラン(すばらしい白の地)」と呼ばれた透明感に溢れた画風を確立し、1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を授与されるまでになった。
     昭和4年(1929年)、藤田は17年ぶりに帰国し、日本で初の個展が東京数寄屋橋の朝日新聞社五階で開かれた。平野政吉はこの個展で初めて藤田嗣治の絵を見たが、その時はただ「うまいな」と感じただけだったと言う。この年、平野政吉は、日本橋三越での個展、第十回帝展(現・日展)でも藤田の絵を見たと言う。
     昭和9年(1934年)、藤田嗣治と平野政吉は、上野の二科展の会場で初めて出会った。その時、平野政吉は自信満々に話す藤田の人柄と作品に強い衝撃を受けた。日本の洋画壇の巨匠、藤島武二との挨拶を終えた藤田嗣治に平野政吉が「私も藤島さんの絵が好きです」と話しかけた時、藤田は言った。「ああいう人の絵を買っておくと、やがてみんなただになりますよ。ぼくの絵は全部国宝ですからね」
     最初、平野政吉は藤田をおかしなこと言う人だと思ったと言う。しかし、藤田が描いた「カーニバルの後」(1932年)を見て、その細密な線描、画面全体を包み込む倦怠感、足元に散乱する紙テープの描写の正確さなどに心が動かされ、強い衝撃を受けた。そして、今まで自分が収集してきたものが、吹き飛ばされてしまう感じがしたと言う。その出会いから二人の交友が始まった。この頃から、平野政吉は、美術館を建てたい、そのために純粋芸術の藤田の絵を集めたいと思うようになったと言う。
     平野政吉は、若い頃から培ってきた審美眼で、藤田嗣治の作品と才能に着目し、その後、美術館建設の夢の実現のため、藤田嗣治作品を誰よりも熱心に収集していくこととなる。



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    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

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    (2013年8月1日)




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     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
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  • 2011.09.03(15:00)|文化||TOP↑
    2011.09.12
     昭和11年(1936年)3月、藤田は外務省の依頼を受けた、映画「現代日本」の総監督として秋田を訪れた。前年の夏に旅行で秋田を訪れていたが、この時は、日本を欧米に紹介する目的で製作された映画の撮影で秋田にやって来たのだった。この時、藤田に弟子入りしていた平野の末弟、弘も同行していた。弘は学生時代に二科展で入選するなど、才能ある平野政吉の弟であった。そういった縁もあり、この時、平野は藤田を歓待し、いろいろと世話をした。
     この年の6月、藤田の妻、マドレーヌが日本で急死した。マドレーヌは藤田にとって、鴇田とみ、フェルナンド・バレー、ユキに次ぐ4人目の妻であったが、この時、藤田から葬儀費用の捻出などのために絵を手放したいという相談が平野政吉に持ち掛けられた。藤田の初期の傑作「眠れる女」(昭和6年作)であった。藤田独自の細やかな線描で描かれた、「グラン・フォン・ブラン(すばらしい白の地)」、「乳白色の肌」の傑作である。平野は即座に応じ、当時の金額で5万円を送金したと言う。当時家が10件買える金額であった。平野はマドレーヌの葬儀にも参列し、初七日にあたる7月5日、傷心の藤田に美術館建設の意を伝えたと言う。この話に藤田は大いに喜び、元気付けられたとのことだ。
     7月10日、藤田はマドレーヌを描いたこの「眠れる女」とともに秋田にやって来た。夜行列車で一睡もせずに秋田に持ってきたと言う。平野は、美術館を建てたいと藤田に話し、藤田は、また秋田に来るとだけ答えた。藤田は絵に「お前、大丈夫だよ。ここは美術館になるんだからな」といとおしそうに語りかけ、秋田を去っていったと言う。この「眠れる女」は平野政吉コレクションの藤田嗣治作品第一号となった。美術館建設への第一歩が踏み出されたのだった。



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  • 2011.09.12(17:35)|文化||TOP↑
    2012.02.01
     世界の絵画史上に名を残した藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品は、「乳白色の肌」と呼ばれる透明感溢れる肌の描写、日本画の面相筆(めんそうふで)を使って描いた美しく流れるような黒い輪郭線の線描などに独創的な特徴がある。
     「乳白色の肌」の誕生については、浮世絵の鈴木春信、喜多川歌麿などの画から着想し、「肌という最も美しいマチエールを表現してみんと決意した」とのだと言う。
     最近、この「乳白色」は、ベビーパウダーを使って出していたことが解明されている。
     また、藤田の線描の技法は、日本人であるが故に日本の筆P1010446 藤田嗣治(セピア).jpgと日本の墨を油絵に使ったもので、「無念無想の気持ちで線の流れ出すままに任せて」描いたのだと言う。
     東洋の神秘と言われた藤田嗣治の作品は、それ以前の洋画にない独創的なものとして、ヨーロッパ美術界で高く評価されたが、画面の中でヨーロッパと日本の文化が融合したものであった。

     藤田嗣治作品のコレクターであった平野政吉は、藤田嗣治作品の魅力について、
    「西洋の光線画の色と、東洋の墨の線を女子(おなご)の肌みたいな独特の画面に融和して、無駄な線と色のない緊張感を創り出したこと」
    「空白の部分の緊張感と、どことなく神秘的な雰囲気を醸し出す表現力、これが世界画壇の雄、藤田嗣治の魅力だろう」
    ―と語っている。
     藤田嗣治の才能を誰よりも認め、長年の交友があった平野政吉ならではの、的確で分かりやすい表現による藤田嗣治作品の紹介と言えるだろう。

     藤田嗣治の才能を見抜く審美眼を持った秋田の先人がいたことに、秋田県人として誇りを持ちたい。
     そして、この希有な先人が建てた美術館を、そのコレクションとともに、未来に受け継ぎ、伝えていきたいものである。


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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
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    (2014年2月)





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     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2012.02.01(23:35)|文化||TOP↑
    2013.11.01
     平野政吉は10代の頃から93歳で亡くなるまで生涯をかけ、その財力の全てを費やし、卓越した審美眼で美術品を収集し続けた。そのうち財団法人平野政吉美術館に寄贈された作品は601点で、藤田嗣治作品は101点である。P1010420門800x600.jpg

     大壁画「秋田の行事」は、藤田が平野政吉の求めに応じて、二人で構想した美術館を壁画で飾るために描かれた。縦365㌢、横2050㌢の大きさがあり、制作当時、世界一と言われた。
     昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、年中行事と祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで散りばめられている作品である。藤田はこの作品を描く前に「壁画は秋田の全ぼうが直ちに解る様に、あらゆる風俗又その時代的な意味に従って洩らさず描くつもりである」(「夕刊秋田」1936年《昭和11年》11月18日)と語っている。線と色彩の融合、生命力、パッションが画面に溢れており、藤田の特徴がよく表わされている。藤田はこの壁画を僅か15日で一気に描き上げ、完成後、「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたと言う。平野政吉は、藤田に当時の金額で、50万円支払ったとのことだ。当時、家が100軒建つ金である。

     「眠れる女」は藤田の4番目の妻、マドレーヌを描いた作品である。繊細な線描、乳白色の肌の秀作である。1936年(昭和11年)6月、マドレーヌが急死した際、経済的に困窮していた藤田が、平野政吉に売った作品であり、平野コレクションの藤田作品第一号となった。藤田はこの絵を夜行列車に乗り、一睡もせず、秋田に持ってきたという。平野の美術館建設構想を聞き、「お前、大丈夫だよ。ここは美術館になるんだからな」と言って秋田を去ったという逸話が残されている。
     この1936年(昭和11年)に平野政吉は、現在平野政吉美術館の大展示室に常設展示されている「北平の力士」、「五人女」、「カーニバルの後」など大作12点を、当時の金額5万円で購入している。当時、家が10軒建つ金額である。

     江戸時代から続く米穀商で、秋田県内有数の大地主の家に生まれた平野政吉は、経済的に恵まれ、月に米250俵分の金額を美術品収集に使うほどであったが、戦後の農地改革で多くの資産を失った。
     昭和42年、念願の美術館 (秋田県立美術館・平野政吉美術館) を建て終えた後、平野政吉は、秋田市大町にあった、藤田が「秋田の行事」を描き上げた米蔵や千秋矢留町の別邸などすべてを失った。
     現在、平野政吉を偲ぶものは、若い頃、藤田と二人で構想して以来、29年の歳月を費やし完成させた、P1010726 平野美術館(9-14)正倉院を模した高床式のこの美術館だけである。

     平野政吉は、その生涯をかけ、全財力を費やし、レオナール・フジタ(藤田嗣治)作品を始めとした貴重な美術品を収集した。
     美術館は、平野政吉の業績の集大成であり、秋田の地に収集した作品を恒久に保存、展示するために造られたものだ。
     平野政吉の業績を称える意味においても、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、平野コレクションとともに秋田の文化遺産として永く後世に伝えるべきである。


    <参考記事>
    平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶


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    <お薦め記事>
    藤田嗣治の壁画「秋田の行事」が描かれた時代の背景 ~ 一体感を持つ「平野政吉美術館」






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.11.01(17:57)|文化||TOP↑
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