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2013.12.07
 藤田嗣治は、1931年から2年間に及ぶ南米、中米への放浪の旅を終え、帰国後、近代都市・パリとは異なる文化やメキシコでのリベラ、オロスコの壁画との出会いに強く影響を受け、土着的な民俗的なものに目を向けるようになり、パリ当時のモノトーン風の作品から色彩豊かなものへと作風が変化した。この変化には、ともに旅をしたマドレーヌ・ルクーの影響も大きいと言われ、失意の底にあったフジタを癒し、新たな創作へ向かわせたとされる。

 藤田が帰国後、最初に描いた壁画は、東京・銀座聖書館内のブラジル珈琲館宣伝所のために描いた大壁画「大地」(1934年)である。

 ブラジル・リオデジャネイロ郊外の光景をコーヒー園を遠景にして描き、帰国後間もないため、新鮮な中南米の印象を描き切っており、ブラジルの大地で働く人々や動物たちを色調豊かに表現した作品になっている。
 藤田はこの作品を、ちょうど1ヵ月、360時間という短時間で仕上げた。すべての取材、付き合いを断り、没頭して制作したことが、藤田の著した「現代壁画論」(1936年2月)に記されている。

 この作品は、藤田の壁画作品の中でも傑作中の傑作と言われたが、宣伝室の責任者であったブラジルのコーヒー王・アスムソン氏とともに1940年、ブラジルに渡り、その後、1970年に日本の企業によって、日本に買い戻され、現在は1996 年、広島県廿日市市に開館したウッドワン美術館の所有になっている。

 ブラジルで、アスムソン家の壁にはめ込む際、天地左右が切断されて、原画と異なるサイズ、雰囲気になったと言われるが、それでも随所に制作当時の面影がそのまま残っていると言う。また、画中の女性の何人かは愛妻・マドレーヌを描いたものとされる。エコール・ド・パリの哀愁と南米のパッションが融合、昇華した、藤田の画業の転換期の歴史的な作品である。
 
 この「大地」の制作には、藤田に命じられ、画家の東郷青児、鶴田宏、海老原喜之助が助手として加わり、重要でない背景の空や土の部分を描いたことを、鶴田らが、「《大地》日本へ還る」(1971年)のパンフレットの中で明らかにしている。

 藤田は、「壁画時代」の到来を夢み、大阪、京都、浜松、銀座など全国各地で、意欲的に壁画制作に挑み、いつの日にか大作壁画を描くことを強く望んでいた。このような時期に、藤田の絵に魅せられ、藤田の才能を見抜き着目した、秋田の美術品収集家・平野政吉との出会いがあり、大壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)の誕生へと向かって行ったのである。

 藤田は、「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)の制作において、そのスピードに挑み、「大地」を凌ぐ、15日間、174時間の速さで、幅20.5メートルの大作を完成させた。また、世界各地で壁画を観たフジタ自身が、「世界一の大きさ(当時)である」と自負した作品である。

 また、「大地」との関連で言うと、「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)の制作時においても、画家・鶴田宏が、制作助手として参加していることが分かっている。〈帰国後、藤田が寄寓した義兄・中村緑野の子息(藤田の甥)、蓮元啓文氏(当時、昭和女子大教授)が記述〉

 日本に帰国後、最初に描いた壁画「大地」、満足に近い大幅の実現を願っていた藤田が、最後に集大成として描いた秋田の風俗絵巻、「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)。

「更に数をふんで何れの日にか満足に近い大幅の出現を夢み切々と実行している次第である」(「現代壁画論」より)

 二つの壁画は、藤田の画業の歴史、藤田が思い描いた「壁画時代」を辿るうえで、非常に重要な位置にある作品と言える。

   ………………………………………………………………………………

 新県立美術館の開館記念には、この壁画「大地」が展示されたが、1929年にパリで会員制サロンのために描いた壁画「花鳥図」の複製パネルの方がメディアで大きく宣伝され、あまり着目されなかったのは惜しまれることだ。

 客寄せの目玉作品にばかり意識を注いだ企画者側の姿勢が問われるだろう。しかも、パリまで出向き作ったこの壁画「花鳥図」のパネルは、著作権の関係で、美術館に常設展示すら出来ないとのことになっているとのことだ。

 美術館の建物と同様に、客寄せのために新しい物を作るより、今ある物、受け継いで来た物に光を当て、掘り下げて理解し、画家・藤田嗣治の画業の変遷、本質に思いを馳せることのほうが、美術を愛する心を育てることになるではないのか。



<関連記事>
藤田嗣治「秋田の行事」の魅力
レオナール・フジタ(藤田嗣治)に大壁画「秋田の行事」を描かせた、秋田の傑人・平野政吉
「壁画時代」の到来に意欲を燃やした藤田嗣治 ― 壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)は、藤田快心の壁画だった。


<お薦め記事>
藤田嗣治の壁画「秋田の行事」が描かれた時代の背景 ~ 一体感を持つ「平野政吉美術館」




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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
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  • 2013.12.07(05:50)|文化||TOP↑
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    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
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