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2011.09.03
   P1010455 平野政吉 720x540.jpg   P1010452 藤田嗣治 720x540.jpg
 
 明治28年(1895年)、秋田市大町で江戸時代から続く米穀商の家に生まれた平野政吉は、若い頃、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭、操縦中に東京湾に墜落し、九死に一生を得るなど、破天荒な人物であったことが知られているが、経済的に恵まれ、十代の頃から美術品を収集していた。
 藤田嗣治は、明治19年(1886年)、東京府牛込区(現在の新宿区)新小川町で陸軍軍医の家に生まれ、若い頃から画家を志し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業後、フランスに渡り、パリ、モンパルナスに住み、エコール・ド・パリの一員としてアメデオ・モディリアーニ、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーなどと交友し、活躍、サロン・ドートンヌの審査員になるなどの名声を得た。藤田ならではのきめ細かで、美しい線描の技法、「乳白色の肌」「グラン・フォン・ブラン(すばらしい白の地)」と呼ばれた透明感に溢れた画風を確立し、1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を授与されるまでになった。
 昭和4年(1929年)、藤田は17年ぶりに帰国し、日本で初の個展が東京数寄屋橋の朝日新聞社五階で開かれた。平野政吉はこの個展で初めて藤田嗣治の絵を見たが、その時はただ「うまいな」と感じただけだったと言う。この年、平野政吉は、日本橋三越での個展、第十回帝展(現・日展)でも藤田の絵を見たと言う。
 昭和9年(1934年)、藤田嗣治と平野政吉は、上野の二科展の会場で初めて出会った。その時、平野政吉は自信満々に話す藤田の人柄と作品に強い衝撃を受けた。日本の洋画壇の巨匠、藤島武二との挨拶を終えた藤田嗣治に平野政吉が「私も藤島さんの絵が好きです」と話しかけた時、藤田は言った。「ああいう人の絵を買っておくと、やがてみんなただになりますよ。ぼくの絵は全部国宝ですからね」
 最初、平野政吉は藤田をおかしなこと言う人だと思ったと言う。しかし、藤田が描いた「カーニバルの後」(1932年)を見て、その細密な線描、画面全体を包み込む倦怠感、足元に散乱する紙テープの描写の正確さなどに心が動かされ、強い衝撃を受けた。そして、今まで自分が収集してきたものが、吹き飛ばされてしまう感じがしたと言う。その出会いから二人の交友が始まった。この頃から、平野政吉は、美術館を建てたい、そのために純粋芸術の藤田の絵を集めたいと思うようになったと言う。
 平野政吉は、若い頃から培ってきた審美眼で、藤田嗣治の作品と才能に着目し、その後、美術館建設の夢の実現のため、藤田嗣治作品を誰よりも熱心に収集していくこととなる。



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美術館と自然光 … 1
美術館と自然光 2 … 軽井沢千住博美術館の場合




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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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  • 2011.09.03(15:00)|文化||TOP↑
    2011.09.12
     昭和11年(1936年)3月、藤田は外務省の依頼を受けた、映画「現代日本」の総監督として秋田を訪れた。前年の夏に旅行で秋田を訪れていたが、この時は、日本を欧米に紹介する目的で製作された映画の撮影で秋田にやって来たのだった。この時、藤田に弟子入りしていた平野の末弟、弘も同行していた。弘は学生時代に二科展で入選するなど、才能ある平野政吉の弟であった。そういった縁もあり、この時、平野は藤田を歓待し、いろいろと世話をした。
     この年の6月、藤田の妻、マドレーヌが日本で急死した。マドレーヌは藤田にとって、鴇田とみ、フェルナンド・バレー、ユキに次ぐ4人目の妻であったが、この時、藤田から葬儀費用の捻出などのために絵を手放したいという相談が平野政吉に持ち掛けられた。藤田の初期の傑作「眠れる女」(昭和6年作)であった。藤田独自の細やかな線描で描かれた、「グラン・フォン・ブラン(すばらしい白の地)」、「乳白色の肌」の傑作である。平野は即座に応じ、当時の金額で5万円を送金したと言う。当時家が10件買える金額であった。平野はマドレーヌの葬儀にも参列し、初七日にあたる7月5日、傷心の藤田に美術館建設の意を伝えたと言う。この話に藤田は大いに喜び、元気付けられたとのことだ。
     7月10日、藤田はマドレーヌを描いたこの「眠れる女」とともに秋田にやって来た。夜行列車で一睡もせずに秋田に持ってきたと言う。平野は、美術館を建てたいと藤田に話し、藤田は、また秋田に来るとだけ答えた。藤田は絵に「お前、大丈夫だよ。ここは美術館になるんだからな」といとおしそうに語りかけ、秋田を去っていったと言う。この「眠れる女」は平野政吉コレクションの藤田嗣治作品第一号となった。美術館建設への第一歩が踏み出されたのだった。



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    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

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    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
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    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
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  • 2011.09.12(17:35)|文化||TOP↑
    2011.09.21
     昭和11年3月の秋田訪問の際、藤田は、歓迎会の席の挨拶で「世界第一の芸術家、大日本帝国・藤田嗣治の名において、1923年(大正12年)、バチカン宮殿で、ローマ法王に謁見たまわった。エリゼ宮で、フランス大統領にも勲章をもらい、ベルギー皇帝からも栄誉を授かったのであります」と話し始めたという。藤田の語ったことはすべて真実であったが、伝説では、この話に平野政吉がカチンときて、「世界一というなら世界一の絵を描いて証拠を見せろ」と詰め寄り、藤田が「それなら、世界一の大きさの絵を描いて見せましょう」と言ったのが、「秋田の行事」誕生のきっかけであると伝えられているが、晩年、平野政吉は、実際は、藤田の迫力の前に圧倒されたのが真相であると語っている。二人の間に心の応酬があったとも伝えられるが、「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の固い友情、強い信頼関係の中から生まれたものと見るべきだろう。
     この年の7月以降、藤田は度々秋田を訪れ、平野政吉の美術館建設構想を受け、美術館を飾る壁画を制作することを明らかにした。その後、平野の案内で秋田市内の竿灯、日吉八幡神社山王祭などを見学し、スケッチをするなどした。また、平野は藤田のために、千秋矢留町に別宅を用意し、藤田の長期滞在に備えた。藤田が秋田に訪れるたびに二人は美術館の構想を深めていき、「秋田を第二の奈良に」「正倉院、法隆寺を秋田に拵えるつもりで」「壁画は奈良・東大寺の大仏に匹敵する世界一大きなものに」と話し合われていった。P1010416 平野政吉美術館w480.jpg
     そしていよいよ、昭和12年2月21日、平野政吉の米蔵で後に「秋田の行事」と言われる秋田の全貌を描いた壁画が描かれることになった。藤田は一気に15日間でこの壁画を描き上げた。興が乗った時は三晩位の徹夜も度々あったとのことだ。完成後、藤田は平野に「平野さん、無駄な材料を使わせて申し訳ない」と言って、紫の絵具一個と白の大ビン二個だけを差し出したと言う。平野は最初に藤田から言われた量の絵具を渡しただけだったので、藤田の天才ぶりに改めて関心したと言う。完成後、藤田は「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまでまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたとのことだ。
     「秋田の行事」は、昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、竿灯、梵天などの年中行事、祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで描かれている作品である。藤田はこの壁画を「秋田の全貌」が直ちに解るように、あらゆる風俗を時代的な意味に従って洩らさず描くという意図で描いた。藤田ならではの線と色彩が融合し、生命力、パッションが画面に溢れている。

     「秋田の行事」は、二人で構想した美術館に飾る壁画として描かれたものである。その後30年の時を経て完成した美術館は、日本宮殿を思わせる屋根の形、正倉院を模した高床式の造りなど藤田嗣治、平野政吉の構想を生かしており、「秋田の行事」は藤田に言われた通りの展示の仕方(注)になっている。
     平野政吉美術館とそこに展示されている「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史を示す証であり、未来にこのままの形で伝える義務が私たちにある。この貴重な文化財を移設によって、価値を壊すようなことがあってはならない。


    (注) 「秋田の行事」は、藤田嗣治の助言により、床から6尺(約1.8メートル)上げた位置に据え付けられ、両端を少しずつ迫り出して据え付けられている。


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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

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  • 2011.09.21(15:21)|文化||TOP↑
    2011.10.25
     1966年(昭和41年)5月、平野政吉は藤田嗣治(レオナール・フジタ)に会うため、パリ郊外のヴィリエ・ル・バークルにある藤田の家に向かっていた。美術館建設の報告のためであった。
     藤田がフランスに戻る前年の1948年(昭和23年)に会って以来、18年ぶりの再会に二人は固く握手をした。
    「悲願の藤田美術館がようやく建ちます」
    「長い歳月でしたね。ほんとうにおめでとう」
     藤田は初期の作品の寄贈を申し出るなど、喜んだ。しかし、翌日、藤田から予期せぬ電話が入った。
    「昨日の話はなかったことにしてくれ」
     夫人の反対があった様子だった。平野政吉は止む無く納得した。その代わり、美術館の名称を「藤田嗣治美術館」にするという藤田との長年の約束を撤回したのだった。

     平野政吉が、美術館を建設するまでの道のりは長かった。大壁画「秋田の行事」が完成した翌年、1938年(昭和13年)に、秋田市八橋で建設に着手したが、戦時の鉄材使用制限のため止む無く中断となった。戦後は、農地改革によって多くの資産を失い、独力での美術館建設が困難になったが、財団法人を設立し、公的な美術館にすることを考え、官民一体の建設実行委員会を発足させ、美術館建設を実現させることになった。建設には県民の寄付金(当時の金額で、2000万円)、国庫補助金(同、1500万円)、平野政吉の私財(同、5000万円)も充てられ、29年の歳月を経て1967年(昭和42年)5月5日、悲願の美術館を完成させた。P1010589 平野政吉美術館800x600秋〇.jpg

     秋田県立美術館(平野政吉美術館)開館の日、平野政吉は、「16才から58年間、一途に集めてきた作品だけに愛着があり、藤田画伯も秋田に『新しい奈良』を築きなさいと私に語っていた。私としてはどうしても秋田の地に飾りたかった。こどもの日を期して皆さんにお見せ出来るのにはうれしい意義がある。これからの若い人達にこれを見てもらって学んでいただき、優れた美を表現してほしいと念願しているからだ。私の願いを受けてくれた県民にお礼を申したい」と挨拶した。
    「生まれ育った秋田の地に、私の集めた『文化』を残す」という長年の夢が実現した瞬間であった。

     平野政吉が藤田を訪ねた際、藤田は美術館のこけら落としへの招待に乗り気であったというが、夫人の反対で実現しなかった。しかし、藤田は貴重なアドバイスをしてくれた。美術館の採光形式と「秋田の行事」の展示方法についてであった。
    「美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ」(注)
    「壁画は床から6尺(約1.8メートル)上げ、両端を少しずつせり出して据え付けるように」
    藤田はどういう採光がよいか、展示の形がベストなのかを考えていてくれたのである。

     平野政吉の訪問後、しばらくして藤田は美術館の完成を知り、名称が「藤田美術館」ではなくなっていたことに憤り、その後、平野政吉との交際を絶ったと伝えられている。

     しかし、平野政吉が、「秋田の行事」の制作依頼のほか、マドレーヌの葬儀費用の工面や、藤田のために東京・麹町に住居、アトリエを新築したり、1946年(昭和21年)から3年掛かりで完成させた傑作「優美神」やゴヤのエッチング41点を購入し、藤田の渡航を助けるなど、フランス、ヨーロッパなどの海外での評価とは裏腹に日本で不当に低く評価されていた藤田嗣治を物心両面で支えた人物であったことは紛れもない事実である。

     二人が交際を絶ったいう約1年8ヵ月は、二人の長い交友の歴史の中でほんの僅かな期間であり、小さな出来事にしか過ぎないと言える。

     もし、藤田が美術館のこけら落としに出席し、秋田を訪れていたら、名称は「藤田嗣治美術館」になっていたかも知れない。 

     藤田美術館の名称は実現しなかったが、「平野政吉美術館」が、平野政吉と藤田嗣治の尊い魂が込められた貴重な美術館であることは、疑いのない事実であり、秋田の貴重な文化遺産として末永く後世に伝えていくべきである。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。



     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の建設、竣工当時の写真がユーチューブで公開されておりましたので、紹介いたします。


    秋田県立美術館(平野政吉美術館)竣工写真 



    秋田県立美術館(平野政吉美術館)地鎮祭・定礎式
    当時の小畑勇二郎秋田県知事、平野政吉の姿も見えます




    秋田県立美術館(平野政吉美術館)工事写真




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            P1010726 平野美術館(9-14)


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    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
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    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    平野政吉美術館の大展示室と藤田嗣治「秋田の行事」 ~ 永遠に

    秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
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    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2011.10.25(17:55)|文化||TOP↑
    2011.11.15
     1966年(昭和41年)、レオナール・フジタ(藤田嗣治)は自らの画業の集大成として、フランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」の制作に取り組んでいた。フジタは建物の設計、壁画、ステンドグラス、庭石の配置、彫刻などを自らの手で制作した。
     フジタは1964年(昭和39年)、南フランスのニース郊外にある画家マチスが建て、眠るロザリオ礼拝堂を訪れている。
     フジタが作ろうとした礼拝堂も自らが永眠する場所であったに違いない。
     1966年(昭和41年)6月、礼拝堂の建物は完成した。フジタは直ぐ礼拝堂の壁を飾るフレスコ画の制作に取りかかった。フレスコ画制作の作業は過酷を極めた。壁に塗った漆喰が乾く前に絵の具で描き、仕上げるため、正確さ、素早さが要求された。フジタは79歳にしてこの技法に初めて挑み、作業は早朝から深夜に及ぶこともあった。
     フジタ芸術の集大成であるフレスコ壁画は、8月31日完成した。キリストの誕生、復活などの場面がフジタの繊細な技法で描かれている。
     過酷なフレスコ画制作の作業は、フジタの体を蝕んでいた。
     フジタは12月にパリの病院に入院、翌年10月、スイス、チューリヒの病院に転院、1968年(昭和43年)1月29日、フジタは膀胱がんのためチューリヒの病院で81歳の生涯を閉じた。

     訃報を聞いた平野政吉は、フジタの葬儀に参列するため、フランスに向かった。葬儀は、2月3日、ランスのノートルダム大聖堂で行われた。平野政吉は紋付羽織袴の正装で参列した。フジタとの永遠の別れとなった。
     フジタの遺体はランスの礼拝堂に安置された後、1971年(昭和46年)パリ郊外ヴィリエ・ル・バークルの墓地に埋葬されたが、その後、1998年(平成10年)、君代夫人がフジタの日記を発見し、その中で「終生の舞台とした(フジタ)礼拝堂の中で眠るつもりだ」と記していたことが確認され、2003年(平成15年)10月6日、再び「フジタ礼拝堂」(平和の聖母礼拝堂)に移送され、埋葬された。

     フジタとの約束であった美術館の建設を成し遂げた平野政吉は、P1010032_01 平野美術館窓 秋 800x600.jpgフジタとの別れから21年後、1989年(平成元年)3月13日、93歳の生涯を閉じた。「男子一生の命懸けて懸けがいのある男とめぐり会えた」と家人に言い残し、永眠した。フジタとの永遠の友情の証であるコレクションと美術館を残し、旅立った。

     美術館は、1966年(昭和41年)の訪問の際、フジタからアドバイスされた通り、平和の聖母礼拝堂と同じ採光の形式が取られており、フジタが、平野政吉と秋田のために描いてくれた大壁画「秋田の行事」には柔らかく自然光が降り注いでいる(注)。平野政吉美術館と収蔵されている平野政吉のコレクションは、秋田の文化遺産であり、日本の文化遺産である。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。


    ランス フジタ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)の画像(Google画像検索)

    「秋田の行事」の画像(Google画像検索)


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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2011.11.15(01:35)|文化||TOP↑
    2013.03.15
    P1010446 藤田嗣治(セピア)-2 藤田嗣治は、1913年(大正2年)6月、フランスに渡り、独自の画風を切り開き、ヨーロッパ画壇で高く評価され、成功を収め、1929年(昭和4年)9月、17年ぶりに帰国を果たした。

     藤田嗣治と平野政吉は、1934年(昭和9年)上野の二科展の会場で初めて出会い、藤田の作品と藤田の圧倒的な自信を目の当たりにした平野は、強い衝撃を受け、それ以後、平野は藤田作品の熱心なコレクターになり、交友を重ねていった。
     この二人の友情が一層深まったのは、P1010451 平野政吉(セピア)藤田の妻、マドレーヌが日本で急死した際、平野政吉が葬儀のための費用を工面したり、悲嘆にくれる藤田を慰め、励ましたりしたことによる。

     「このメキシコ風の家で、フジタはフランス婦人マドレエヌを失った。………それから間もなく、秋田から平野政吉という人が上京してきて、あの悲嘆にくれたフジタの顔を見てたまらなくなったので、フジタを激励するために秋田にフジタ美術館を作りたいと申出てきた。それがフジタと平野氏を結ぶ縁であったとわたしは記憶している」(蘆原英了「フジタの画室など―平野コレクションを観る―」、「みづゑ」1955年《昭和30年》12月号)

     その後、平野政吉は、美術館に飾る壁画 ― 後に「秋田の行事」と呼ばれる ― を藤田に描かせることに成功し、この壁画と自らが収集したコレクションを国民、秋田県民に公開するための美術館の建設のために、残る人生を懸けることになった。
     藤田嗣治は、1949年(昭和24年)3月、日本を離れ、その後、二度と日本の土を踏むことがなかったが、日本を離れる前、平野政吉に次のように話したとのことだ。

     「先生は、レオナルド・ダ・ヴィンチを大変尊敬していたが、いよいよ日本を去る時私に、『平野さん、これはあなたへのお礼としてあなたにだけに言いのこしておくが、あのモナリザはにせものだよ』という。『それはまたどうして?』と、聞き返すと、先生は、『いや、あのモナリザという作品は、私より下手だから』といったものである」(1977年《昭和52年》、藤田嗣治展図録)

     藤田は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチよりも自分が上だとまで話したという。内に秘めていた揺るぎない「自信」を、親友の平野政吉であればこそ打ち明けたのであろう。
     藤田嗣治と平野政吉は、それ程までの心が打ち解けた、深い友情を築いていたと言えよう。

     世界画壇で最も高く評価されている日本人画家、藤田嗣治(レオナール・フジタ)の実力、才能を見抜き、世界に誇れるコレクターになった平野政吉。
     藤田嗣治との出会いを生涯の誇りにし、生涯「先生」と呼び、敬愛していた平野政吉の存在そのものが、秋田の誇りであり、財産である。
     そして、この二人の友情そのものが、秋田の宝である。その友情を今に伝えているのが、藤田の理念が込められている現秋田県立美術館(平野政吉美術館)なのである。



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    平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 1 … 出会い
    美術館建設宣言と「眠れる女」 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 2
    現秋田県立美術館の展示室が優れているこれだけの理由





            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
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    (2014年2月)





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    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.03.15(22:08)|文化||TOP↑
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    秋田生まれ、東京都内で
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