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2011.05.22
 秋田の文化遺産として、平野政吉美術館(秋田県立美術館)と平野政吉が残したレオナール・フジタ(藤田嗣治)の作品を取り上げたい。
 明治28年、秋田の米穀商に生まれた平野政吉は、若い頃、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭し、操縦中に東京湾に墜落して九死に一生を得るなど、破天荒な人物であったことが知られているが、昭和9年、美術展で藤田嗣治に出会い、藤田とその作品に衝撃を受け、その後、藤田作品のコレクターとなり、藤田を物心両面で支えるなど、交友を深めた。P1010416平野美術館800x600.jpg
 昭和11年、秋田を訪れた藤田に秋田の全貌を描いた壁画を描いてもらうこととなり、翌12年、藤田は僅か15日で、縦365㌢、横2050㌢の当時、世界一と言われた大壁画「秋田の行事」を完成させた。  その後、平野政吉と藤田嗣治は秋田に「新しい奈良」を作ることで意気投合し、大壁画「秋田の行事」を東大寺の大仏に匹敵するものとし、正倉院を模した美術館を秋田に造ることを構想した。平野政吉は、昭和13年美術館建設に着手するが、戦時中の鉄材の使用制限、戦後の農地改革などで多くの資産を失ったことなどにより断念され、昭和42年、平野政吉の私財、県民の寄付金、県費、国庫補助金によって、平野政吉、藤田嗣治念願の美術館が29年の歳月を経て完成された。
 秋田市の中心部にある千秋公園のお堀を前景にしたこの美術館は、日本宮殿流れ式と言われる特徴的な屋根の形をしており、自然光を取り入れるための丸窓が付けられている。平野政吉によると、この採光窓は、藤田の助言によるものであり、平野はその助言を忠実に守ったと語っている。その事実は、複数の新聞、雑誌の記事に残されている。

 また、平野政吉は、昭和41年、美術館建設の報告のためパリ郊外、ヴィリエ・ル・バークルの藤田の家を訪れているが、その際、「秋田の行事」の展示は床から6尺(約1.8㍍)の位置に上げること、両端を少しずつせり出して据え付けることなどを藤田に直接、助言されている。藤田からアドバイスされた最高の展示になっていることがわかる。

 平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、大壁画「秋田の行事」を保存、展示し、鑑賞するために造られている。空間の広がりと藤田が平野に託したランスの「平和の聖母礼拝堂」と同様の柔らかな自然光が大壁画に降り注いでいる(注)。この美術鑑賞空間は、これからも秋田の文化遺産として後世に残していくべきである。


(注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。

<関連記事>
秋田の文化遺産…平野政吉美術館
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
平野政吉の業績…平野コレクションと美術館
美術館と自然光について
平野政吉のエピソード
平野政吉美術館と一体である藤田嗣治作品
千秋公園の景観に溶け込む平野政吉美術館
平野政吉美術館の移転理由は何か 1
平野政吉美術館の移転理由は何か 2
平野政吉美術館の移転理由は何か [新規構成]
平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 1 … 出会い
美術館建設宣言と「眠れる女」 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 2
大壁画「秋田の行事」誕生、美術館の壁画に … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 3
18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
美術館と自然光 … 1
美術館と自然光 2 … 軽井沢千住博美術館の場合







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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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平野政吉美術館の大展示室と藤田嗣治「秋田の行事」 ~ 永遠に

秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2011.05.22(23:26)|文化||TOP↑
    2011.06.02
     平野政吉は10代の頃から93歳で亡くなるまで生涯をかけ、その財力の全てを費やし、卓越した審美眼で美術品を収集し続けた。そのうち財団法人平野政吉美術館に寄贈された作品は601点で、藤田嗣治作品は101点である。

     大壁画「秋田の行事」は、藤田が平野政吉の求めに応じて、二人で構想した美術館を壁画で飾るために描かれた。縦365㌢、横2050㌢の大きさがあり、制作当時、世界一と言われた。
     昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、年中行事と祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで散りばめられている作品である。藤田はこの作品を描く前に「壁画は秋田の全ぼうが直ちに解る様に、あらゆる風俗又その時代的な意味に従って洩らさず描くつもりである」(「夕刊秋田」1936年《昭和11年》11月18日)と語っている。線と色彩の融合、生命力、パッションが画面に溢れており、藤田の特徴がよく表わされている。藤田はこの壁画を僅か15日で一気に描き上げ、完成後、「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたと言う。平野政吉は、藤田に当時の金額で、50万円支払ったとのことだ。当時、家が100軒建つ金である。

     「眠れる女」は藤田の4番目の妻、マドレーヌを描いた作品である。繊細な線描、乳白色の肌の秀作である。1936年(昭和11年)6月、マドレーヌが急死した際、経済的に困窮していた藤田が、平野政吉に売った作品であり、平野コレクションの藤田作品第一号となった。藤田はこの絵を夜行列車に乗り、一睡もせず、秋田に持ってきたという。平野の美術館建設構想を聞き、「お前、大丈夫だよ。ここは美術館になるんだからな」と言って秋田を去ったという逸話が残されている。
     この1936年(昭和11年)に平野政吉は、現在平野政吉美術館の大展示室に常設展示されている「北平の力士」、「五人女」、「カーニバルの後」など大作12点を、当時の金額5万円で購入している。当時、家が10軒建つ金額である。

     江戸時代から続く米穀商で、秋田県内有数の大地主の家に生まれた平野政吉は、経済的に恵まれ、月に米250俵分の金額を美術品収集に使うほどであったが、戦後の農地改革で多くの資産を失った。
     昭和42年、念願の美術館を建て終えた後、平野政吉は、秋田市大町にあった、藤田が「秋田の行事」を描き上げた米蔵や千秋矢留町の別邸などすべてを失った。
     現在、平野政吉を偲ぶものは、若い頃、藤田と二人で構想して以来、29年の歳月を費やし完成させた、正倉院を模した高床式のこの美術館だけである。

     平野政吉は、その生涯をかけ、全財力を費やし、レオナール・フジタ(藤田嗣治)作品を始めとした貴重な美術品を収集した。
     美術館は、平野政吉の業績の集大成であり、秋田の地に収集した作品を恒久に保存、展示するために造られたものだ。
     平野政吉の業績を称える意味においても、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、平野コレクションとともに秋田の文化遺産として永く後世に伝えるべきである。



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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
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    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2011.06.02(14:08)|文化||TOP↑
    2011.07.16
    平野政吉美術館の移転理由は何か 2

    平野政吉美術館の移転理由は何か 1 からつづく
     
     また、県議会において、再開発地区への移転が「秋田への観光客誘致の一助に資する」という、藤田と平野の理念に合ったものだと言う議論もあったが、誤った論理である。秋田への観光客誘致の一助に資するために、恒久的な場所として、千秋公園の入口の最高の場所である現在の場所に現美術館が建てられたのである。
     さらに、近年、東京などで開催された藤田嗣治巡回展に比べ、平野美術館の入館者が少ないことを問題視し、移転が必要だという議論もあった。2010年国勢調査の結果によると首都圏(1都3県)の人口は35,623,327人であり、秋田県人口は約32分の1の1,085,878人にしか過ぎない。単純計算で見ても秋田市にある平野美術館の100人の入館者は、首都圏の3280人に相当し、入館者が少ないとは決して言えないはずだ。
     没後40年レオナール・フジタ展などが多くの観客を動員したのは、企画が優れていたことによるものだ。全国紙新聞社、テレビが主催し、大企業の協賛、外務省やフランス大使館などの後援を得て企画された展示会である。秋田県単独では多くを望めるわけもなく、自己満足的なものしかできないと思われる。

     平野政吉美術館の移転の理由とされるものは、合理性に乏しく、特定の考えを持った人達だけが利するような移転計画に思える。また、美術館は、訪れた人々が美術作品と向き合う場所であることが忘れられ、にぎわい創出と結びつけられている。
     この移転計画は、当初より、平野美術館を移転させ、跡地に他の施設(千秋公園内の某施設)を移転させることを目的とした計画であったことが明らかになっている。当時の県会議員のブログにも示されている。現在では、平野美術館の建物を残すべきだと言う市民、県民の声が高まったことにより、方向を変え、平野美術館の建物だけを残し、建物に他の施設を移そうという目論見に変化している。(県議会において千秋公園内の某施設、美人会館の名が出されている)
     このような移転計画は人間としての道義に反するものではないか。

     平野政吉美術館は、藤田嗣治作品を始めとした美術品の収集に全生涯をかけ、「秋田」の地に収集した作品を残そうとした平野政吉の人生の終着点であり、業績の集大成である。美術館の屋根にある採光のための丸窓は平野政吉が藤田の助言を忠実に守った証であることを平野政吉は明言している。そして、この平野政吉美術館には、レオナール・フジタ(藤田嗣治)の最後の作品であるフランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じる藤田の尊い思いが込められている(注)。

     平野政吉美術館はこれまで通り、平野政吉が収集した「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治作品を保存、展示、公開する美術館として存在し続けることが、本来の在るべき姿であり、藤田嗣治作品と一体になって、秋田の世界に誇れる文化遺産としての価値を高めるに違いない。
    平野政吉美術館の移転理由は何か 1 からお読みください
     


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。



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    平野政吉美術館、なぜ改修ではなく移転が計画されたのか
    平野政吉美術館の移転が画策された理由
    千秋公園の堀と平野政吉美術館
    移転理由が存在しなくなった現県立美術館(平野政吉美術館)
    理由のない美術館移転、誰のため? 何のため?

    (タグ)平野政吉美術館の移転理由






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2011.07.16(23:30)|文化||TOP↑
    2011.07.27
     秋田の文化遺産として、平野政吉美術館(秋田県立美術館)と平野政吉が残したレオナール・フジタ(藤田嗣治)の作品を取り上げたい。
     明治28年、秋田の米穀商に生まれた平野政吉は、若い頃、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭し、操縦中に東京湾に墜落して九死に一生を得るなど、破天荒な人物であったことが知られているが、昭和9年、美術展で藤田嗣治に出会い、藤田とその作品に衝撃を受け、その後、藤田作品のコレクターとなり、藤田を物心両面で支えるなど、交友を深めた。P1010415平野美術館800x600.jpg
     昭和11年、秋田を訪れた藤田に秋田の全貌を描いた壁画を描いてもらうこととなり、翌12年、藤田は僅か15日で、縦365㌢、横2050㌢の当時、世界一と言われた大壁画「秋田の行事」を完成させた。
     その後、平野政吉と藤田嗣治は秋田に「新しい奈良」を作ることで意気投合し、大壁画「秋田の行事」を東大寺の大仏に匹敵するものとし、正倉院を模した美術館を秋田に造ることを構想した。平野政吉は、昭和13年美術館建設に着手するが、戦時中の鉄材の使用制限、戦後の農地改革などで多くの資産を失ったことなどにより断念され、昭和42年、平野政吉の私財、県民の寄付金、県費、国庫補助金によって、平野政吉、藤田嗣治念願の美術館が29年の歳月を経て完成された。
     秋田市の中心部にある千秋公園のお堀を前景にしたこの美術館は、日本宮殿流れ式と言われる特徴的な屋根の形をしており、自然光を取り入れるための丸窓が付けられている。平野政吉によると、この採光窓は、藤田の助言によるものであり、平野はその助言を忠実に守ったと語っている。その事実は、複数の新聞、雑誌の記事に残されている。

     また、平野政吉は、昭和41年、美術館建設の報告のためパリ郊外、ヴィリエ・ル・バークルの藤田の家を訪れているが、その際、「秋田の行事」の展示は床から6尺(約1.8㍍)の位置に上げること、両端を少しずつせり出して据え付けることなどを藤田に直接、助言されている。藤田からアドバイスされた最高の展示になっていることがわかる。

     平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、大壁画「秋田の行事」を保存、展示し、鑑賞するために造られている。空間の広がりと藤田が平野に託したランスの「平和の聖母礼拝堂」と同様の柔らかな自然光が大壁画に降り注いでいる(注)。この美術鑑賞空間は、これからも秋田の文化遺産として後世に残していくべきである。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。



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    美術館建設宣言と「眠れる女」 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 2
    大壁画「秋田の行事」誕生、美術館の壁画に … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 3
    18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    平野政吉美術館の大展示室と藤田嗣治「秋田の行事」 ~ 永遠に

    秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
    美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2011.07.27(05:00)|文化||TOP↑
    2011.09.21
     昭和11年3月の秋田訪問の際、藤田は、歓迎会の席の挨拶で「世界第一の芸術家、大日本帝国・藤田嗣治の名において、1923年(大正12年)、バチカン宮殿で、ローマ法王に謁見たまわった。エリゼ宮で、フランス大統領にも勲章をもらい、ベルギー皇帝からも栄誉を授かったのであります」と話し始めたという。藤田の語ったことはすべて真実であったが、伝説では、この話に平野政吉がカチンときて、「世界一というなら世界一の絵を描いて証拠を見せろ」と詰め寄り、藤田が「それなら、世界一の大きさの絵を描いて見せましょう」と言ったのが、「秋田の行事」誕生のきっかけであると伝えられているが、晩年、平野政吉は、実際は、藤田の迫力の前に圧倒されたのが真相であると語っている。二人の間に心の応酬があったとも伝えられるが、「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の固い友情、強い信頼関係の中から生まれたものと見るべきだろう。
     この年の7月以降、藤田は度々秋田を訪れ、平野政吉の美術館建設構想を受け、美術館を飾る壁画を制作することを明らかにした。その後、平野の案内で秋田市内の竿灯、日吉八幡神社山王祭などを見学し、スケッチをするなどした。また、平野は藤田のために、千秋矢留町に別宅を用意し、藤田の長期滞在に備えた。藤田が秋田に訪れるたびに二人は美術館の構想を深めていき、「秋田を第二の奈良に」「正倉院、法隆寺を秋田に拵えるつもりで」「壁画は奈良・東大寺の大仏に匹敵する世界一大きなものに」と話し合われていった。P1010416 平野政吉美術館w480.jpg
     そしていよいよ、昭和12年2月21日、平野政吉の米蔵で後に「秋田の行事」と言われる秋田の全貌を描いた壁画が描かれることになった。藤田は一気に15日間でこの壁画を描き上げた。興が乗った時は三晩位の徹夜も度々あったとのことだ。完成後、藤田は平野に「平野さん、無駄な材料を使わせて申し訳ない」と言って、紫の絵具一個と白の大ビン二個だけを差し出したと言う。平野は最初に藤田から言われた量の絵具を渡しただけだったので、藤田の天才ぶりに改めて関心したと言う。完成後、藤田は「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまでまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたとのことだ。
     「秋田の行事」は、昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、竿灯、梵天などの年中行事、祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで描かれている作品である。藤田はこの壁画を「秋田の全貌」が直ちに解るように、あらゆる風俗を時代的な意味に従って洩らさず描くという意図で描いた。藤田ならではの線と色彩が融合し、生命力、パッションが画面に溢れている。

     「秋田の行事」は、二人で構想した美術館に飾る壁画として描かれたものである。その後30年の時を経て完成した美術館は、日本宮殿を思わせる屋根の形、正倉院を模した高床式の造りなど藤田嗣治、平野政吉の構想を生かしており、「秋田の行事」は藤田に言われた通りの展示の仕方(注)になっている。
     平野政吉美術館とそこに展示されている「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史を示す証であり、未来にこのままの形で伝える義務が私たちにある。この貴重な文化財を移設によって、価値を壊すようなことがあってはならない。


    (注) 「秋田の行事」は、藤田嗣治の助言により、床から6尺(約1.8メートル)上げた位置に据え付けられ、両端を少しずつ迫り出して据え付けられている。


    <関連記事>
    秋田の文化遺産…平野政吉美術館
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    平野政吉の業績…平野コレクションと美術館
    美術館と自然光について
    平野政吉のエピソード
    平野政吉美術館と一体である藤田嗣治作品
    平野政吉美術館の移転理由は何か [新規構成]
    平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 1 … 出会い
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    18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
    美術館と自然光 … 1
    美術館と自然光 2 … 軽井沢千住博美術館の場合






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2011.09.21(15:21)|文化||TOP↑
    2011.10.25
     1966年(昭和41年)5月、平野政吉は藤田嗣治(レオナール・フジタ)に会うため、パリ郊外のヴィリエ・ル・バークルにある藤田の家に向かっていた。美術館建設の報告のためであった。
     藤田がフランスに戻る前年の1948年(昭和23年)に会って以来、18年ぶりの再会に二人は固く握手をした。
    「悲願の藤田美術館がようやく建ちます」
    「長い歳月でしたね。ほんとうにおめでとう」
     藤田は初期の作品の寄贈を申し出るなど、喜んだ。しかし、翌日、藤田から予期せぬ電話が入った。
    「昨日の話はなかったことにしてくれ」
     夫人の反対があった様子だった。平野政吉は止む無く納得した。その代わり、美術館の名称を「藤田嗣治美術館」にするという藤田との長年の約束を撤回したのだった。

     平野政吉が、美術館を建設するまでの道のりは長かった。大壁画「秋田の行事」が完成した翌年、1938年(昭和13年)に、秋田市八橋で建設に着手したが、戦時の鉄材使用制限のため止む無く中断となった。戦後は、農地改革によって多くの資産を失い、独力での美術館建設が困難になったが、財団法人を設立し、公的な美術館にすることを考え、官民一体の建設実行委員会を発足させ、美術館建設を実現させることになった。建設には県民の寄付金(当時の金額で、2000万円)、国庫補助金(同、1500万円)、平野政吉の私財(同、5000万円)も充てられ、29年の歳月を経て1967年(昭和42年)5月5日、悲願の美術館を完成させた。P1010589 平野政吉美術館800x600秋〇.jpg

     秋田県立美術館(平野政吉美術館)開館の日、平野政吉は、「16才から58年間、一途に集めてきた作品だけに愛着があり、藤田画伯も秋田に『新しい奈良』を築きなさいと私に語っていた。私としてはどうしても秋田の地に飾りたかった。こどもの日を期して皆さんにお見せ出来るのにはうれしい意義がある。これからの若い人達にこれを見てもらって学んでいただき、優れた美を表現してほしいと念願しているからだ。私の願いを受けてくれた県民にお礼を申したい」と挨拶した。
    「生まれ育った秋田の地に、私の集めた『文化』を残す」という長年の夢が実現した瞬間であった。

     平野政吉が藤田を訪ねた際、藤田は美術館のこけら落としへの招待に乗り気であったというが、夫人の反対で実現しなかった。しかし、藤田は貴重なアドバイスをしてくれた。美術館の採光形式と「秋田の行事」の展示方法についてであった。
    「美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ」(注)
    「壁画は床から6尺(約1.8メートル)上げ、両端を少しずつせり出して据え付けるように」
    藤田はどういう採光がよいか、展示の形がベストなのかを考えていてくれたのである。

     平野政吉の訪問後、しばらくして藤田は美術館の完成を知り、名称が「藤田美術館」ではなくなっていたことに憤り、その後、平野政吉との交際を絶ったと伝えられている。

     しかし、平野政吉が、「秋田の行事」の制作依頼のほか、マドレーヌの葬儀費用の工面や、藤田のために東京・麹町に住居、アトリエを新築したり、1946年(昭和21年)から3年掛かりで完成させた傑作「優美神」やゴヤのエッチング41点を購入し、藤田の渡航を助けるなど、フランス、ヨーロッパなどの海外での評価とは裏腹に日本で不当に低く評価されていた藤田嗣治を物心両面で支えた人物であったことは紛れもない事実である。

     二人が交際を絶ったいう約1年8ヵ月は、二人の長い交友の歴史の中でほんの僅かな期間であり、小さな出来事にしか過ぎないと言える。

     もし、藤田が美術館のこけら落としに出席し、秋田を訪れていたら、名称は「藤田嗣治美術館」になっていたかも知れない。 

     藤田美術館の名称は実現しなかったが、「平野政吉美術館」が、平野政吉と藤田嗣治の尊い魂が込められた貴重な美術館であることは、疑いのない事実であり、秋田の貴重な文化遺産として末永く後世に伝えていくべきである。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。



     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の建設、竣工当時の写真がユーチューブで公開されておりましたので、紹介いたします。


    秋田県立美術館(平野政吉美術館)竣工写真 



    秋田県立美術館(平野政吉美術館)地鎮祭・定礎式
    当時の小畑勇二郎秋田県知事、平野政吉の姿も見えます




    秋田県立美術館(平野政吉美術館)工事写真




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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
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    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
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    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
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  • 2011.10.25(17:55)|文化||TOP↑
    2012.01.13
     藤田嗣治が1946年(昭和21年)~48年(昭和23年)の3年を費やして制作した、「優美神」という作品がある。三人の裸体の美女を描いた作品で、藤田の他の作品と比べると、緻密に写実的に描かれており、藤田ならではの線描の美しさなどがよく現われている傑作だ。優美を象徴する三人の女神は、藤田と関わりのあった、フェルナンド・バレー、ユキ、マドレーヌとも言われている。速筆で知られる藤田としては異例の歳月を費やした作品でもある。この作品は平野コレクションの代表的な作品で、かつて平野政吉美術館に展示されてあったが、今はない。経緯は不明だが、平成10年に売りに出され、現在は、関東のある大学の所蔵となっている。この作品を入手した当時、平野政吉はこの作品のために、家屋敷を抵当に入れ、借金までして手に入れている。平野は戦後の農地改革で祖父から受け継いだ資産をほとんど失っていたのだ。P1010124 平野美術館(初冬)800x600.jpg
     この作品は平野政吉が生前、とても自慢にしていた作品で、美術的評価も高く、今、平野政吉美術館にあれば、「秋田の行事」と並ぶ秋田の貴重な文化的財産になっていた作品である。
     平野政吉は、収集した作品が秋田から散逸しないことを願い、美術館を建設したのだが、平野の意に反し、秋田から散逸し、失われてしまったのだ。

     新県立美術館が建設され、そこに平野政吉コレクションを移そうという計画が進められているようだ。平野政吉が建てた美術館から平野が収集したコレクションを移すことは、一つの文化としての纏まっている形を壊す、文化の破壊である。特に、大壁画「秋田の行事」を移転するのであれば、現美術館に搬入した際の経緯からも分かることだが、美術館の側面を壊さなければならないことになり、そのまま現美術館の建物を壊すことに直結する。
     平野政吉美術館は、平野政吉が多くの苦難を経て29年の歳月を懸け完成させ、交友のあった藤田嗣治のアドバイスが随所に採り入れられている貴重な美術館である。移転、移設により「秋田の文化」が失われることがあってはならない。
     
     先の「優美神」と同じように先人の残した貴重な文化的財産は、今に生きる我々の愚かさによって直ぐに失われてしまうものだ。
     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)からの藤田嗣治作品の移設は、平野政吉が築き上げた「文化」を壊すことであり、実行すべきではないだろう。


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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
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    階上の左右から見ることが出来なくなった。
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    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
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    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





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    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2012.01.13(16:22)|文化||TOP↑
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    Author:akitabunka

    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
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