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2013.04.28
 「私と別れ際、藤田は『美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ』と注文をつけた。私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ。藤田は、スケッチをくれた。これが最後の対面となった。」

 平野政吉は、1983年(昭和58年)1月12日に朝日新聞に掲載された「聞き書き わがレオナルド藤田」の中で、1966年(昭和41年)に美術館建設の報告を兼ね藤田に会いに行った際の様子を語り、藤田にそう助言されたと語っている。P1010425E7AA93800x600 平野政吉美術館の採光
また、秋田県内の財団法人発行の雑誌の中で平野政吉の対談が掲載されており、同様に、藤田を訪ねた際、美術館の屋根はランス礼拝堂のような採光のとれる丸窓にしてくれと言われ、宮殿造りのギリシャ式柱廊の美術館に丸窓をつけて画伯の心を忠実に表わしたと語っている。

 藤田は、自らの画業の集大成として、フランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」の設計、壁画、ステンドグラスの制作に取り組み、1966年(昭和41年)10月に完成させているが、その壁画制作に入る直前に、平野政吉は藤田に会い、美術館の採光方式をアドバイスされている。

 1968年(昭和43年)1月29日、藤田はスイス、チューリッヒで亡くなったが、今は生前の藤田の希望により、自ら設計したランスの「平和と聖母礼拝堂」に眠っている。

 平野政吉は、美術館をこのランスの「平和と聖母礼拝堂」と同じ採光形式にするよう、藤田に託されており、現在の平野政吉美術館は、ランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じる、藤田の魂が込められていると言える。また、「平和の聖母礼拝堂」に描かれた藤田の最後の大作であるフレスコ壁画と同じように、大壁画「秋田の行事」には柔らかな自然光が降り注がれている(注)。

 世界で最も著名な日本人画家、レオナール・フジタ(藤田嗣治)が深く関わった建築物は、フランス、ヴィリエ・ル・バークルの住居兼アトリエであった「メゾン・アトリエ・フジタ」、ランスの「平和の聖母礼拝堂」があるが、日本では、平野政吉美術館以外にあるだろうか。  

 平野政吉美術館(秋田県立美術館)は、千秋公園の緑に溶け込んだ佇まいの中に平野政吉とレオナール・フジタ(藤田嗣治)の交友の歴史を示しており、貴重な秋田の文化遺産として後世に残すべきである。


(注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。


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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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  • 2013.04.28(17:05)|文化||TOP↑
    2013.11.27
     華やかであったエコール・ド・パリの時代が終焉を告げ、藤田は、自分の将来を何とかしたという思いから新たな画境を求め、パリを離れ、ラテンアメリカ各地に2年に及ぶ放浪の旅に出た。異文化体験と、メキシコでのリベラ、オロスコなどの壁画との出会いがあり、日本に戻った後、藤田は、土着的な、民俗的なものに目を向けるようになり、各地で壁画制作に挑むようになった。
     そして、当時の日本に「壁画の時代」を築くことに意欲を燃やし、1936年(昭和11年)2月に発表した「現代壁画論」の中で、

    「吾等すべてが共力してこの壁画の時代を作れば、結局国の富、国の誇りを作り出す訳である」
    「画其の物の本質的条件に適ひ、更に独創的な天分の発表と制作であったらばその画は永久に国宝として、国の誇りを増す……」
    (「現代壁画論」より)


    などと語っている。

     自分自身についても「更に数をふんで何れのP1010454 藤田嗣治日にか満足に近い大幅の出現を夢み切々と実行している次第である」(「現代壁画論」より)として、大作壁画の実現に並々ならぬ意欲を燃やしていたのである。

     翌1937年2月に描かれた、壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)は、実は藤田自身が夢みた、満足に近い大幅であり、快心作であることが窺われる。
     少なくても藤田が、快心の作を描くという意識のもとに描いた作品であることに違いない。

     藤田は、15日間、174時間というスピードで壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)を完成させた。これは、早筆で知られる藤田がそのスピードに挑んだものではあったが、必ずしも藤田の壁画制作にとって特別なことではなかった。
     日本に帰国後、最初に描いた壁画「大地」の制作日数と時間は、31日間、360時間であったし、メキシコで観たリベラは、壁画を1日に10メートル四方も描いていたことを藤田は知っていた。

     壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)完成後、藤田は「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」(1983年1月9日、朝日新聞「聞き書き・わがレオナルド藤田」)と興奮して語り、普段は決して口にすることのない酒を一杯飲み干し、祝ったと伝えられている。
     また、平野政吉には、天皇陛下が見に来られたら、こう説明申し上げてくれと詳細に指示したことが伝えられている。

    「壁画時代」の到来を願い、

    「多数の画家によって総べての形によって日本の到る処の地に名物の壁画を作成されん事を切望する次第である」(「現代壁画論」より)

    と藤田は語っている。
     平野政吉が、藤田に全国の道府県の壁画を描いてもらうことを夢みていたのと同様に、藤田は全国各地に名物になるような壁画が、多数の画家によって制作されることを夢み、願っていたのである。

     その藤田の夢が、日本で唯一、実現されたのがP1010455平野政吉 800x600、壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)であって、それを実現させたのが、唯一、秋田の美術品収集家・平野政吉であったのである。

     画家・藤田嗣治の夢、理想の実現に、財を惜しまず尽力した平野政吉の功績は、藤田嗣治(レオナール・フジタ)の画業と近代絵画史を語るうえで、非常に大きいものがある。

     そういった事実を直視すれば、平野政吉が藤田嗣治の助言を忠実に守り、建てたという平野政吉美術館は、二人が共同して建てた美術館であるわけで、この美術館から、平野政吉が命を懸け収集したコレクションを切り離し、移すという行為は、尋常でない行為に思えるのである。


            P1010180_03 平野政吉美術館(2013年6月)


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    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

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    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
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    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
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     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.11.27(05:30)|文化||TOP↑
    2013.12.07
     藤田嗣治は、1931年から2年間に及ぶ南米、中米への放浪の旅を終え、帰国後、近代都市・パリとは異なる文化やメキシコでのリベラ、オロスコの壁画との出会いに強く影響を受け、土着的な民俗的なものに目を向けるようになり、パリ当時のモノトーン風の作品から色彩豊かなものへと作風が変化した。この変化には、ともに旅をしたマドレーヌ・ルクーの影響も大きいと言われ、失意の底にあったフジタを癒し、新たな創作へ向かわせたとされる。

     藤田が帰国後、最初に描いた壁画は、東京・銀座聖書館内のブラジル珈琲館宣伝所のために描いた大壁画「大地」(1934年)である。

     ブラジル・リオデジャネイロ郊外の光景をコーヒー園を遠景にして描き、帰国後間もないため、新鮮な中南米の印象を描き切っており、ブラジルの大地で働く人々や動物たちを色調豊かに表現した作品になっている。
     藤田はこの作品を、ちょうど1ヵ月、360時間という短時間で仕上げた。すべての取材、付き合いを断り、没頭して制作したことが、藤田の著した「現代壁画論」(1936年2月)に記されている。

     この作品は、藤田の壁画作品の中でも傑作中の傑作と言われたが、宣伝室の責任者であったブラジルのコーヒー王・アスムソン氏とともに1940年、ブラジルに渡り、その後、1970年に日本の企業によって、日本に買い戻され、現在は1996 年、広島県廿日市市に開館したウッドワン美術館の所有になっている。

     ブラジルで、アスムソン家の壁にはめ込む際、天地左右が切断されて、原画と異なるサイズ、雰囲気になったと言われるが、それでも随所に制作当時の面影がそのまま残っていると言う。また、画中の女性の何人かは愛妻・マドレーヌを描いたものとされる。エコール・ド・パリの哀愁と南米のパッションが融合、昇華した、藤田の画業の転換期の歴史的な作品である。
     
     この「大地」の制作には、藤田に命じられ、画家の東郷青児、鶴田宏、海老原喜之助が助手として加わり、重要でない背景の空や土の部分を描いたことを、鶴田らが、「《大地》日本へ還る」(1971年)のパンフレットの中で明らかにしている。

     藤田は、「壁画時代」の到来を夢み、大阪、京都、浜松、銀座など全国各地で、意欲的に壁画制作に挑み、いつの日にか大作壁画を描くことを強く望んでいた。このような時期に、藤田の絵に魅せられ、藤田の才能を見抜き着目した、秋田の美術品収集家・平野政吉との出会いがあり、大壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)の誕生へと向かって行ったのである。

     藤田は、「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)の制作において、そのスピードに挑み、「大地」を凌ぐ、15日間、174時間の速さで、幅20.5メートルの大作を完成させた。また、世界各地で壁画を観たフジタ自身が、「世界一の大きさ(当時)である」と自負した作品である。

     また、「大地」との関連で言うと、「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)の制作時においても、画家・鶴田宏が、制作助手として参加していることが分かっている。〈帰国後、藤田が寄寓した義兄・中村緑野の子息(藤田の甥)、蓮元啓文氏(当時、昭和女子大教授)が記述〉

     日本に帰国後、最初に描いた壁画「大地」、満足に近い大幅の実現を願っていた藤田が、最後に集大成として描いた秋田の風俗絵巻、「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)。

    「更に数をふんで何れの日にか満足に近い大幅の出現を夢み切々と実行している次第である」(「現代壁画論」より)

     二つの壁画は、藤田の画業の歴史、藤田が思い描いた「壁画時代」を辿るうえで、非常に重要な位置にある作品と言える。

       ………………………………………………………………………………

     新県立美術館の開館記念には、この壁画「大地」が展示されたが、1929年にパリで会員制サロンのために描いた壁画「花鳥図」の複製パネルの方がメディアで大きく宣伝され、あまり着目されなかったのは惜しまれることだ。

     客寄せの目玉作品にばかり意識を注いだ企画者側の姿勢が問われるだろう。しかも、パリまで出向き作ったこの壁画「花鳥図」のパネルは、著作権の関係で、美術館に常設展示すら出来ないとのことになっているとのことだ。

     美術館の建物と同様に、客寄せのために新しい物を作るより、今ある物、受け継いで来た物に光を当て、掘り下げて理解し、画家・藤田嗣治の画業の変遷、本質に思いを馳せることのほうが、美術を愛する心を育てることになるではないのか。



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    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
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     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
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  • 2013.12.07(05:50)|文化||TOP↑
    2014.07.20
     藤田嗣治(レオナール・フジタ)が1937年(昭和12年)に、制作依頼主である平野政吉の米蔵で描いた大壁画「秋田の行事」は縦3.65メートル、横20.5メートルの大きさがあり、制作当時世界一と言われた。しかも、藤田は僅か15日間という驚異的な速さ、集中力でこの作品を描き上げた。
     藤田は「秋田の全貌」を漏らさず描くという意図を持って壁画を描き、画面には昭和12年当時の秋田の冬の日常生活、夏の竿灯祭り、冬の太平山三吉神社の梵天祭り、秋の日吉八幡神社山王祭などが描かれ、人々の生き生きとした情景が描かれている。この作品が「秋田の行事」と呼ばれるようになったのは、昭和50年代以降のようである。昭和40年代発行の書籍の中では「秋田の四季」の名で呼ばれており、「秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図」と記述された図録もある。
     この作品の一番の魅力は、藤田嗣治が僅か15日間で描いたとは思われない作品の出来映え、完成度である。藤田嗣治は速筆で知られ、繊細な黒い線描も無念無想の気持ちで線の流れ出すままに任せて一気に描く技術を持っていたが、そのスピード感、才能が顕著に発揮されているのが「秋田の行事」である。パリ時代の乳白色の地肌、モノトーン調の画風から、中南米での2年間の旅行を経て、多彩な色彩表現へと変化し、帰国後、藤田は日本各地で「壁画」制作に挑んだが、その集大成と言えるのが「秋田の行事」である。P1010437_01 平野美術館(5月)-2
     画面に描かれた人々を見ると、人々は活気に溢れ、生き生きとしている。描かれている人物の一人一人が主役のように見える。藤田の鋭い観察力、卓越した表現力が感じられる。「秋田の行事」が展示されている平野政吉美術館の大展示室には藤田が二科展に出品した大作「北平の力士」(1935年)、「自画像」(1936年)なども展示されているが、それらと全く変わらぬ出来映えの大壁画である。
     また、画面には霊峰太平山、高清水丘陵の香爐木橋(こうろぎばし)、箱橇、馬橇、雪室、米俵、木材、酒樽、石油櫓などの秋田の風物が、まるで秋田人が描いたかと思わせるほど詳細に描かれている。
     藤田嗣治の作品には、子供を題材にしたものも多いが、「秋田の行事」の中でも雪室に遊ぶ子供たち、凧(秋田べらぼう凧)を持った子供などが表情豊かに生き生きと描かれいる。
     また、藤田は緻密な布の描写でも知られているが、「秋田の行事」においても、人々が纏う縞木綿、絣、野良着などの着物を細密に、布の質感まで描き出している。藤田は壁画制作の参考のために秋田の着物を多数購入していたとのことだ。

     「秋田の行事」の前に立つと観る者は迫力を感じる。この絵は床から約1.8メートルの位置に上げられ、両端が少しずつ迫り出して据えられている。上方からは柔らかな自然光が降り注いでいる。これらは、平野政吉が、藤田嗣治から直接助言を受けたことによるものだ。この事実は複数の新聞、書籍で明らかになっている。藤田がこの絵に最適な展示の仕方をアドバイスしてくれたのだ。(注)

     また、この「秋田の行事」を展示している平野政吉美術館の大展示室は、広さが550平方メートル、高さが4階ほどの18メートルある。この大空間で観ればこそ、迫力を感じることができるのだ。在り来たりの空間では、同様の迫力を感じることは不可能だろう。

     「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治作品の展示に最も相応しいのは、作品の寄贈者である平野政吉が、藤田嗣治の助言を忠実に守り、建てた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)であり、この美術館を末永く後世に伝えるべきである。



    <追記> 2013.9.1
     藤田嗣治(レオナール・フジタ)作の大壁画「秋田の行事」は、8月31日、合理的な理由もなく建設された、200メートル離れた場所にある新県立美術館に移設されました。
     「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史を刻んだ現秋田県立美術館(平野政吉美術館)で観るべき壁画であり、藤田が助言したこの大空間の展示室を末永く後世に伝えるべきである。


    (著者注) 新県立美術館での展示では、藤田が「壁画」のために助言した「自然光」による採光形式から、人工照明(LED)に変えられています。

    ( 本記事は、平野政吉美術館の大展示室で観た「秋田の行事」について、記述しております。 新県立美術館における展示は、印象が異なります。 )


    <参考記事>
    平野政吉美術館の移転理由は何か [新規構成]

    平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶


    <関連記事>
    レオナール・フジタ(藤田嗣治)に大壁画「秋田の行事」を描かせた、秋田の傑人・平野政吉
    藤田嗣治が語った「壁画」と、「秋田の行事」、平野政吉のトロッコ構想
    藤田嗣治「秋田の行事」の構図と奥行き感、臨場感
    藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」誕生 … 平野政吉と藤田嗣治の美術館建設構想
    藤田嗣治画伯の「秋田の行事」の移設は、「文化の創造」と言えるか?


    <注目記事>
    藤田嗣治、随筆の中で、歴史的建造物を遺すことの重要性を語る ~ 県立美術館・平野政吉美術館にも当て嵌まる言葉 ~
    新県立美術館建設のコンセプト、「『秋田の行事』を再開発地区のにぎわい創出につなげたい」は、藤田嗣治が否定!~「実に、絵画を、侮辱した話」
    地元紙、藤田嗣治の言葉を「秋田の行事」に誤用 ― 実は昭和10年銀座コロンバン天井画の完成の際に記述した文である。
    懸念される新県立美術館での藤田嗣治「秋田の行事」の展示
    「秋田の行事」引っ越し関連に、8996万円の県費支出 ― 果たして移転する必要があったのか。


    <お薦め記事>
    藤田嗣治の壁画「秋田の行事」が描かれた時代の背景 ~ 一体感を持つ「平野政吉美術館」






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



    関連記事
    平野政吉美術館の大展示室と藤田嗣治「秋田の行事」 ~ 永遠に

    秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
    美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2014.07.20(06:00)|文化||TOP↑
    2017.10.21
     1936年 (昭和11年) 2月に、藤田嗣治は、「現代壁画論」を著わし、当時の日本社会における「壁画」の必要性や、メキシコ、フランスなどでの壁画作品の実情、自身の壁画制作の遍歴などを語っている。

     1930年代 (昭和5年~14年) は、画家・藤田嗣治にとって、画風が変化した大きな転換期であった。1931年から2年に及ぶ中南米への旅で藤田は、異文化を体験し、民俗的なものに眼差しを向けたが、その後、帰国した日本は、国家主義、民族主義の高まりを見せていた時代であった。
     「現代壁画論」の中で、藤田は、この時期の日本において、「吾等すべてが共力してこの壁画を作れば、結局国の富、国の誇りを作り出す訳である」 「多数の画家によって総べての形によって日本の到る処の地に名物の壁画を作成されん事を切望する次第である」 などと述べ、これからの時代の壁画の重要性を強調している。
     また、フランスで見たベルサイユ宮殿の壁画、シャヴァンヌの壁画、バチカン宮殿・システィーナ礼拝堂にあるミケランジェロの大壁画、メキシコで見たリベラ、オロスコの壁画などに刺激を受け、日本で自らが壁画制作に挑もうと意欲を燃やしたと思われる。
     帰国後、日本で藤田は、「大地」 (1934年10月、教文館・聖書館ビル《東京銀座》、1階ブラジルコーヒー宣伝室)、「春」 (1935年10月、大阪そごう本店、6階特別食堂)、「コロンバン天井画」 (1935年11月、銀座コロンバン《東京銀座》、2階サロン)、「ノルマンディーの春」 (1936年5月、関西日仏学館《京都》、貴賓室)、「野あそび 」(1936年9月、丸物百貨店《京都》、中2階喫茶室) を描いている。「春」以降の4作は、依頼主や設置場所に相応しいフランス風景と女性像を描いたヨーロッパ風の作品であった。
     しかし、藤田は「何れの日にか満足に近い大幅の出現を夢み切々と実行している次第である」 (「現代壁画論」より) と語っており、将来、大作壁画を実現させることに強い意欲を燃やし、これが翌年、1937年 (昭和12年) の大作 「秋田の全貌」 (後に「秋田の行事」と呼ばれる) へと繋がっていったと推察される。
     また、藤田は、「現代壁画論」の中で、観光への壁画の効果を挙げ、「各県の県庁、物産陳列場等 (著者注、公共施設等) にその土地の風俗、お祭り、ダンス、踊り、其他の産物等を壁画として描くことは紹介の最良策と考えて居る」 と言及しているが、この構想は、唯一、秋田の平野政吉が依頼した 「秋田の全貌」 (後の「秋田の行事」) の制作により、実現されているだけである。

     この頃、藤田の作品に魅せられ、藤田の才能を日本でいち早く認めた秋田の資産家・平野政吉との出会い、さらに平野の美術館建設構想への共鳴があり、美術館の壁を飾るための大作壁画 「秋田の全貌」 (後の「秋田の行事」) 制作へと繋がっていったのである。
     この大壁画に描かれた、秋田の四季の祭り、風俗、人々の冬の生活風景などを通じ、藤田が伝えたかったのは、日本古来の文化、伝統的な営みへの慈しみ、誇りであり、また、民族主義が高まっていたその時代に生きた日本人としての、アイデンティティーが込められたものと言えるだろう。

     この壁画制作までの間、藤田嗣治と依頼主・平野政吉は、美術館と壁画の構想を温め、平野は「奈良の正倉院や法隆寺を秋田に拵えるような気持ちで、私は美術館を建てて新しい名所にしたい」 (「平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男」より、 渡部琴子著 新潮社 2002年) と語り、意気投合した藤田と平野は、「秋田を第二の奈良に、そのためには、世界一大きい奈良の大仏に匹敵する、世界一大きな絵を描くことで二人の意見は一致した」 (「平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男」より、 渡部琴子著 新潮社 2002年) ということである。
     また、1936年 (昭和11年)7月 、藤田は美術館のイメージとして、「採光だけは洋風にとって、出来上り小さな三十三間堂といった感じのものにしたい」 (平野政吉美術館企画展の説明より) と語ったと伝えられている。
     さらに、平野家に保存されていた、1938年 (昭和13年) に着工され、その後、鉄材使用制限により断念された、最初の美術館の設計図を見ても、日本宮殿風の造りと、広い空間の展示室に自然光をふんだんに採り入れる採光形式の設計になっていることが分かっている。
     
     最初の美術館建設着手後、29年の歳月を経て、1967年 (昭和42年) に完成した秋田県立美術館・平野政吉美術館は、秋田県初の歴史的な美術館として、県民に大いに歓迎された。
     また、その建物は、「日本宮殿流れ式の屋根」、 「正倉院を意識したという高床式の構造」、 「高い天井から自然光を採り入れる形式」を備えており、「秋田の全貌」 (後の「秋田の行事」) が制作された当時に構想されたデザインが、特徴的に随所に見られる。
     また、それを美術館の創設者・平野政吉が何より誇りにしていたことが、残された新聞、雑誌の記事等から分かっている。

     「美術館の建物を宮殿づくり、ギリシャ式柱廊を折衷したのは、館内の採光を考えた末の、フジタと私のアイディアだ」
    (「平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男」より、 渡部琴子著 新潮社 2002年)

     「別れるさい、(藤田は)美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光P1010425E7AA93800x600 平野政吉美術館の採光のとれる丸窓にしてくれといいました。宮殿造り、ギリシャ式柱廊へ例の丸窓をつけて画伯の心を忠実に生かしました」

    (1985年《昭和60年》、あきた青年広論[(財)秋田青年会館発行]) ― (1966年《昭和41年》5月、美術館建設の報告のためパリ郊外の藤田嗣治を訪ねた時の様子を語って)



     民族主義が高まっていた昭和初期という時代の中で生まれた藤田嗣治の大壁画「秋田の全貌」 (後の「秋田の行事」) 、日本古来の建築様式に目を向け、この壁画のために考案されたデザインを持つ平野政吉美術館。この両者は、どちらも日本古来の文化、伝統に目を向け、この壁画に最も相応しい展示形式が追求されており、切り離すことの出来ない一体感を持つものである。
     この両者が醸し出す鑑賞空間を、後世の人々への貴い遺産として伝えるべきであると改めて思う。

    P1010483 平野政吉美術館(6月)800x600











    <参考記事>
    平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2017.10.21(06:00)|文化||TOP↑
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    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
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