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2011.07.15
 財団法人平野政吉美術館が平野政吉美術館の移転要請をされたのは、2007年(平成19年)11月であったが、主な移転理由は、平野美術館にある藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」を再開発地区の集客の目玉にしたい。現美術館が老朽化し10年以内の耐震補強のための大規模改修が必要となる。県財政が厳しく、10年後の改修費の確保が困難になる可能性があり、今回移転したほうがよいなどであった。

 「秋田の行事」は藤田嗣治の最大の作品で、観る者を圧倒する迫力ある大壁画である。昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、祭り、年中行事などが、藤田の特徴ある線と色彩で描かれている。この「秋田の行事」を集客の目玉にということであるが、現美術館と新美術館建設予定地は、僅か200メートルしか離れていない。しかも、現在地のほうが、秋田市で一番の観光名所、千秋公園の入口にあり、集客面でも優れている。わざわざ再開発地区の商業施設と隣接した場所に移さなければならない合理的理由は見当たらない。また、現在、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)に展示されている「秋田の行事」は、床から6尺(約1.8メートル)の位置に据えること、両端を迫り出して据えること(アールを付けること)を藤田嗣治から直接助言を受け展示しており、美術館自体が「秋田の行事」を展示、鑑賞することを主目的に建設されたものだ。「秋田の行事」を鑑賞するうえで、最高の展示状況にあると言える。この美術館から「秋田の行事」を移設しなければならない正当な理由があるのだろうか。また、「秋田の行事」に限らず、藤田嗣治作品を集客目的に考える発想は疑問視される。

 次に、美術館の建物が老朽化し、10年以内の耐震補強のための大規模改修が必要であるとのことだが、建物の耐震診断さえ結局実施されなかった。また、昨年2月と今年2月の県議会において、知事は「現美術館の文化施設など美術館以外の活用も可能だ」と発言している。それならば現美術館の移転は必要ないのではと多くの人が思ったはずだ。また、美術館としては使用不可で、他の施設なら可であるという合理的理由がどこにあるのだろうか。
 県財政が厳しく、10年後の改修費確保が困難になる可能性があると言う点については信じ難い気がする。今回移転した場合、始めは県有地との相殺により県の支出がほとんどないと説明していたものが、昨年の県議会では9億2千万円の支出に変わり、それでも計画の見直しや検討さえしようとしなかった。著名建築家に依頼したために数億円の設計費を支出したり、移転宣伝費にも多額の支出をしている。財政上有利だという説明は、真の理由ではなかったようだ。
平野政吉美術館の移転理由は何か 2 につづく



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秋田の文化遺産…平野政吉美術館
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
平野政吉の業績…平野コレクションと美術館
美術館と自然光について
平野政吉のエピソード
平野政吉美術館と一体である藤田嗣治作品
平野政吉美術館の移転理由は何か [新規構成]
大壁画「秋田の行事」誕生、美術館の壁画に … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 3
18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
美術館と自然光 2 … 軽井沢千住博美術館の場合
平野政吉美術館、なぜ改修ではなく移転が計画されたのか
平野政吉美術館の移転が画策された理由
千秋公園の堀と平野政吉美術館
移転理由が存在しなくなった現県立美術館(平野政吉美術館)
理由のない美術館移転、誰のため? 何のため?

(タグ)平野政吉美術館の移転理由




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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
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現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2011.07.15(02:00)|文化||TOP↑
    2011.07.16
    平野政吉美術館の移転理由は何か 2

    平野政吉美術館の移転理由は何か 1 からつづく
     
     また、県議会において、再開発地区への移転が「秋田への観光客誘致の一助に資する」という、藤田と平野の理念に合ったものだと言う議論もあったが、誤った論理である。秋田への観光客誘致の一助に資するために、恒久的な場所として、千秋公園の入口の最高の場所である現在の場所に現美術館が建てられたのである。
     さらに、近年、東京などで開催された藤田嗣治巡回展に比べ、平野美術館の入館者が少ないことを問題視し、移転が必要だという議論もあった。2010年国勢調査の結果によると首都圏(1都3県)の人口は35,623,327人であり、秋田県人口は約32分の1の1,085,878人にしか過ぎない。単純計算で見ても秋田市にある平野美術館の100人の入館者は、首都圏の3280人に相当し、入館者が少ないとは決して言えないはずだ。
     没後40年レオナール・フジタ展などが多くの観客を動員したのは、企画が優れていたことによるものだ。全国紙新聞社、テレビが主催し、大企業の協賛、外務省やフランス大使館などの後援を得て企画された展示会である。秋田県単独では多くを望めるわけもなく、自己満足的なものしかできないと思われる。

     平野政吉美術館の移転の理由とされるものは、合理性に乏しく、特定の考えを持った人達だけが利するような移転計画に思える。また、美術館は、訪れた人々が美術作品と向き合う場所であることが忘れられ、にぎわい創出と結びつけられている。
     この移転計画は、当初より、平野美術館を移転させ、跡地に他の施設(千秋公園内の某施設)を移転させることを目的とした計画であったことが明らかになっている。当時の県会議員のブログにも示されている。現在では、平野美術館の建物を残すべきだと言う市民、県民の声が高まったことにより、方向を変え、平野美術館の建物だけを残し、建物に他の施設を移そうという目論見に変化している。(県議会において千秋公園内の某施設、美人会館の名が出されている)
     このような移転計画は人間としての道義に反するものではないか。

     平野政吉美術館は、藤田嗣治作品を始めとした美術品の収集に全生涯をかけ、「秋田」の地に収集した作品を残そうとした平野政吉の人生の終着点であり、業績の集大成である。美術館の屋根にある採光のための丸窓は平野政吉が藤田の助言を忠実に守った証であることを平野政吉は明言している。そして、この平野政吉美術館には、レオナール・フジタ(藤田嗣治)の最後の作品であるフランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じる藤田の尊い思いが込められている(注)。

     平野政吉美術館はこれまで通り、平野政吉が収集した「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治作品を保存、展示、公開する美術館として存在し続けることが、本来の在るべき姿であり、藤田嗣治作品と一体になって、秋田の世界に誇れる文化遺産としての価値を高めるに違いない。
    平野政吉美術館の移転理由は何か 1 からお読みください
     


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。



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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
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    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2011.07.16(23:30)|文化||TOP↑
    2011.07.27
     秋田の文化遺産として、平野政吉美術館(秋田県立美術館)と平野政吉が残したレオナール・フジタ(藤田嗣治)の作品を取り上げたい。
     明治28年、秋田の米穀商に生まれた平野政吉は、若い頃、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭し、操縦中に東京湾に墜落して九死に一生を得るなど、破天荒な人物であったことが知られているが、昭和9年、美術展で藤田嗣治に出会い、藤田とその作品に衝撃を受け、その後、藤田作品のコレクターとなり、藤田を物心両面で支えるなど、交友を深めた。P1010415平野美術館800x600.jpg
     昭和11年、秋田を訪れた藤田に秋田の全貌を描いた壁画を描いてもらうこととなり、翌12年、藤田は僅か15日で、縦365㌢、横2050㌢の当時、世界一と言われた大壁画「秋田の行事」を完成させた。
     その後、平野政吉と藤田嗣治は秋田に「新しい奈良」を作ることで意気投合し、大壁画「秋田の行事」を東大寺の大仏に匹敵するものとし、正倉院を模した美術館を秋田に造ることを構想した。平野政吉は、昭和13年美術館建設に着手するが、戦時中の鉄材の使用制限、戦後の農地改革などで多くの資産を失ったことなどにより断念され、昭和42年、平野政吉の私財、県民の寄付金、県費、国庫補助金によって、平野政吉、藤田嗣治念願の美術館が29年の歳月を経て完成された。
     秋田市の中心部にある千秋公園のお堀を前景にしたこの美術館は、日本宮殿流れ式と言われる特徴的な屋根の形をしており、自然光を取り入れるための丸窓が付けられている。平野政吉によると、この採光窓は、藤田の助言によるものであり、平野はその助言を忠実に守ったと語っている。その事実は、複数の新聞、雑誌の記事に残されている。

     また、平野政吉は、昭和41年、美術館建設の報告のためパリ郊外、ヴィリエ・ル・バークルの藤田の家を訪れているが、その際、「秋田の行事」の展示は床から6尺(約1.8㍍)の位置に上げること、両端を少しずつせり出して据え付けることなどを藤田に直接、助言されている。藤田からアドバイスされた最高の展示になっていることがわかる。

     平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、大壁画「秋田の行事」を保存、展示し、鑑賞するために造られている。空間の広がりと藤田が平野に託したランスの「平和の聖母礼拝堂」と同様の柔らかな自然光が大壁画に降り注いでいる(注)。この美術鑑賞空間は、これからも秋田の文化遺産として後世に残していくべきである。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。



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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

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    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
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  • 2011.07.27(05:00)|文化||TOP↑
    2011.08.27
     2007年(平成19年)11月、財団法人平野政吉美術館は平野政吉美術館の移転要請をされたが、主な移転理由とされたものは、平野美術館にある藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」を再開発予定地区の目玉にしたい。現美術館が10年以内の耐震補強のための大規模改修が必要となる。県の財政上の理由から今回移転したほうがよいなどであった。

     まず、「秋田の行事」を再開発予定地の目玉にという話であるが、現美術館と新美術館建設予定地は、僅か200メートルしか離れていない。しかも、現在地のほうが、秋田市で一番の観光名所、千秋公園の入口にあり、集客面でも優位にある。P1010416平野美術館800x600
    わざわざ商業地帯の再開発予定地区に移転しなければならない合理的理由は見当たらない。また、現在、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)に展示されている「秋田の行事」は、床から6尺(約1.8メートル)の位置に据えること、両端を迫り出して据えること(アールを付けること)を藤田嗣治から直接助言を受け展示しており、美術館自体が「秋田の行事」を展示、鑑賞することを主目的に建設されている。「秋田の行事」を鑑賞するうえで、最高の展示状況にあると言える。この美術館から「秋田の行事」を移設しなければならない合理的理由があるのだろうか。また、「秋田の行事」に限らず藤田嗣治の作品を集客目的に考える発想は疑問視される。

     次に10年以内の耐震補強ための大規模改修が必要であるとのことだが、建物の耐震診断さえ実施しなかったし、現在の耐震技術では東京都台東区の国立西洋美術館や神奈川県箱根町のポーラ美術館が採用している建物の揺れを軽減させる「免震構造」という技術もあるが、一切検討しなかった。また、昨年2月と今年2月の県議会において、知事は「現美術館の文化施設など美術館以外の活用も可能だ」と発言している。美術館としては使用できず、他の文化施設なら可能であるという合理的理由がどこにあるのだろうか。

     県の財政上の理由から、10年後の改修費確保が困難になる可能性があるとの説明があったが信じ難い話である。当初、今回移転した場合、県有地との相殺により県の支出はほとんどないと説明していたものが、昨年の議会では9億2千万円の支出に変わったが、計画の中止はおろか見直しや再検討さえされなかった。著名建築家に設計を依頼したために数億円の設計費が掛かり、移転宣伝費にも多額の県費が使われている。移転が財政上有利だという説明は、真の理由ではなかったようだ。 

    P1010412蓮800x600.jpg また、近年、東京などで開催された藤田嗣治巡回展に比べ、平野美術館の入館者が少ないことを問題視し、移転が必要だという議論もあったが、首都圏と秋田県の人口比較からも分かるように (詳しくは、7月16日の記事をお読みください)平野政吉美術館の入館者が少ないとは言えないはずである。
     没後40年レオナール・フジタ展など、藤田嗣治の全国巡回展が多くの観客を動員したのは、全国紙新聞社、全国ネットのテレビ局が主催し、多くの大企業の協賛、外務省やフランス大使館などの後援を得るなど総力を挙げて企画された展示会であったからである。秋田県単独では規模も限定され、全国の美術ファンを引き付けることはできないだろう。また、単発的な効果しかない企画展より、しっかりとした理念を持った常設展の展示の充実を計ることが美術館の魅力にとって重要なはずだ。

     平野政吉美術館の移転理由とされるものは、すべて合理性に乏しいものである。この移転計画は、平野美術館を移転させ、跡地に他の施設(千秋公園内の某施設)を移転させることを念頭に画策したものであることが、当初より明らかになっている。当時の秋田市長(現県知事)も2007年(平成19年)9月の市議会において、この施設の改築について、「県立美術館跡地における改築も視野に、別途検討を要する」と発言している。現在では、平野美術館の建物を残すべきだと言う市民、県民の声の高まりによって、方向を変え、平野美術館の建物だけを残し、建物に他の施設を移そうという目論見に変わっているようだ。(県議会において、千秋公園内の某施設、美人会館の名が出されている)
     このような移転計画は人間としての道義に反するものとは言えないか。

    P1010425窓800x600.jpg 平野政吉美術館は、藤田嗣治の作品を始めとした美術品の収集に全生涯を懸け、生まれ育った「ふるさと秋田」の地に収集した作品を残そうとした平野政吉の人生の終着駅であり、集大成である。美術館の屋根にある採光のための丸窓は藤田嗣治の助言を忠実に守ったためであると平野政吉は複数の新聞、雑誌で証言している。そして、この美術館にはレオナール・フジタ(藤田嗣治)が最後に制作したフランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じるフジタの尊い思いが込められている(注)。

     平野政吉美術館はこれまで通り、平野政吉が生涯を懸け収集した「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治の作品を展示、公開する美術館であり続けることが、最善の方法であり、唯一の道である。また、それによって、秋田の世界に誇れる文化遺産としての価値をさらに高めるに違いない。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。


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    平野政吉美術館と一体である藤田嗣治作品
    平野政吉美術館の移転理由は何か 1
    平野政吉美術館の移転理由は何か 2
    大壁画「秋田の行事」誕生、美術館の壁画に … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 3
    18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
    美術館と自然光 2 … 軽井沢千住博美術館の場合
    藤田嗣治「中南米の旅」から「秋田の行事」へ
    平野政吉美術館、なぜ改修ではなく移転が計画されたのか
    平野政吉美術館の移転が画策された理由
    移転理由が存在しなくなった現県立美術館(平野政吉美術館)
    理由のない美術館移転、誰のため? 何のため?

    (タグ)平野政吉美術館の移転理由






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    平野政吉美術館の大展示室と藤田嗣治「秋田の行事」 ~ 永遠に

    秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
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    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2011.08.27(01:57)|文化||TOP↑
    2011.10.25
     1966年(昭和41年)5月、平野政吉は藤田嗣治(レオナール・フジタ)に会うため、パリ郊外のヴィリエ・ル・バークルにある藤田の家に向かっていた。美術館建設の報告のためであった。
     藤田がフランスに戻る前年の1948年(昭和23年)に会って以来、18年ぶりの再会に二人は固く握手をした。
    「悲願の藤田美術館がようやく建ちます」
    「長い歳月でしたね。ほんとうにおめでとう」
     藤田は初期の作品の寄贈を申し出るなど、喜んだ。しかし、翌日、藤田から予期せぬ電話が入った。
    「昨日の話はなかったことにしてくれ」
     夫人の反対があった様子だった。平野政吉は止む無く納得した。その代わり、美術館の名称を「藤田嗣治美術館」にするという藤田との長年の約束を撤回したのだった。

     平野政吉が、美術館を建設するまでの道のりは長かった。大壁画「秋田の行事」が完成した翌年、1938年(昭和13年)に、秋田市八橋で建設に着手したが、戦時の鉄材使用制限のため止む無く中断となった。戦後は、農地改革によって多くの資産を失い、独力での美術館建設が困難になったが、財団法人を設立し、公的な美術館にすることを考え、官民一体の建設実行委員会を発足させ、美術館建設を実現させることになった。建設には県民の寄付金(当時の金額で、2000万円)、国庫補助金(同、1500万円)、平野政吉の私財(同、5000万円)も充てられ、29年の歳月を経て1967年(昭和42年)5月5日、悲願の美術館を完成させた。P1010589 平野政吉美術館800x600秋〇.jpg

     秋田県立美術館(平野政吉美術館)開館の日、平野政吉は、「16才から58年間、一途に集めてきた作品だけに愛着があり、藤田画伯も秋田に『新しい奈良』を築きなさいと私に語っていた。私としてはどうしても秋田の地に飾りたかった。こどもの日を期して皆さんにお見せ出来るのにはうれしい意義がある。これからの若い人達にこれを見てもらって学んでいただき、優れた美を表現してほしいと念願しているからだ。私の願いを受けてくれた県民にお礼を申したい」と挨拶した。
    「生まれ育った秋田の地に、私の集めた『文化』を残す」という長年の夢が実現した瞬間であった。

     平野政吉が藤田を訪ねた際、藤田は美術館のこけら落としへの招待に乗り気であったというが、夫人の反対で実現しなかった。しかし、藤田は貴重なアドバイスをしてくれた。美術館の採光形式と「秋田の行事」の展示方法についてであった。
    「美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ」(注)
    「壁画は床から6尺(約1.8メートル)上げ、両端を少しずつせり出して据え付けるように」
    藤田はどういう採光がよいか、展示の形がベストなのかを考えていてくれたのである。

     平野政吉の訪問後、しばらくして藤田は美術館の完成を知り、名称が「藤田美術館」ではなくなっていたことに憤り、その後、平野政吉との交際を絶ったと伝えられている。

     しかし、平野政吉が、「秋田の行事」の制作依頼のほか、マドレーヌの葬儀費用の工面や、藤田のために東京・麹町に住居、アトリエを新築したり、1946年(昭和21年)から3年掛かりで完成させた傑作「優美神」やゴヤのエッチング41点を購入し、藤田の渡航を助けるなど、フランス、ヨーロッパなどの海外での評価とは裏腹に日本で不当に低く評価されていた藤田嗣治を物心両面で支えた人物であったことは紛れもない事実である。

     二人が交際を絶ったいう約1年8ヵ月は、二人の長い交友の歴史の中でほんの僅かな期間であり、小さな出来事にしか過ぎないと言える。

     もし、藤田が美術館のこけら落としに出席し、秋田を訪れていたら、名称は「藤田嗣治美術館」になっていたかも知れない。 

     藤田美術館の名称は実現しなかったが、「平野政吉美術館」が、平野政吉と藤田嗣治の尊い魂が込められた貴重な美術館であることは、疑いのない事実であり、秋田の貴重な文化遺産として末永く後世に伝えていくべきである。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。



     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の建設、竣工当時の写真がユーチューブで公開されておりましたので、紹介いたします。


    秋田県立美術館(平野政吉美術館)竣工写真 



    秋田県立美術館(平野政吉美術館)地鎮祭・定礎式
    当時の小畑勇二郎秋田県知事、平野政吉の姿も見えます




    秋田県立美術館(平野政吉美術館)工事写真




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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
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    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2011.10.25(17:55)|文化||TOP↑
    2013.04.28
     「私と別れ際、藤田は『美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ』と注文をつけた。私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ。藤田は、スケッチをくれた。これが最後の対面となった。」

     平野政吉は、1983年(昭和58年)1月12日に朝日新聞に掲載された「聞き書き わがレオナルド藤田」の中で、1966年(昭和41年)に美術館建設の報告を兼ね藤田に会いに行った際の様子を語り、藤田にそう助言されたと語っている。P1010425E7AA93800x600 平野政吉美術館の採光
    また、秋田県内の財団法人発行の雑誌の中で平野政吉の対談が掲載されており、同様に、藤田を訪ねた際、美術館の屋根はランス礼拝堂のような採光のとれる丸窓にしてくれと言われ、宮殿造りのギリシャ式柱廊の美術館に丸窓をつけて画伯の心を忠実に表わしたと語っている。

     藤田は、自らの画業の集大成として、フランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」の設計、壁画、ステンドグラスの制作に取り組み、1966年(昭和41年)10月に完成させているが、その壁画制作に入る直前に、平野政吉は藤田に会い、美術館の採光方式をアドバイスされている。

     1968年(昭和43年)1月29日、藤田はスイス、チューリッヒで亡くなったが、今は生前の藤田の希望により、自ら設計したランスの「平和と聖母礼拝堂」に眠っている。

     平野政吉は、美術館をこのランスの「平和と聖母礼拝堂」と同じ採光形式にするよう、藤田に託されており、現在の平野政吉美術館は、ランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じる、藤田の魂が込められていると言える。また、「平和の聖母礼拝堂」に描かれた藤田の最後の大作であるフレスコ壁画と同じように、大壁画「秋田の行事」には柔らかな自然光が降り注がれている(注)。

     世界で最も著名な日本人画家、レオナール・フジタ(藤田嗣治)が深く関わった建築物は、フランス、ヴィリエ・ル・バークルの住居兼アトリエであった「メゾン・アトリエ・フジタ」、ランスの「平和の聖母礼拝堂」があるが、日本では、平野政吉美術館以外にあるだろうか。  

     平野政吉美術館(秋田県立美術館)は、千秋公園の緑に溶け込んだ佇まいの中に平野政吉とレオナール・フジタ(藤田嗣治)の交友の歴史を示しており、貴重な秋田の文化遺産として後世に残すべきである。


    (注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。


    <関連記事>
    最後の作品「平和の聖母礼拝堂」、永遠の別れ、永遠の友情 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 5
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    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の丸窓について
    レオナール・フジタ「平和の聖母礼拝堂」と「秋田の行事」
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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

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    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




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     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
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  • 2013.04.28(17:05)|文化||TOP↑
    2013.11.01
     平野政吉は10代の頃から93歳で亡くなるまで生涯をかけ、その財力の全てを費やし、卓越した審美眼で美術品を収集し続けた。そのうち財団法人平野政吉美術館に寄贈された作品は601点で、藤田嗣治作品は101点である。P1010420門800x600.jpg

     大壁画「秋田の行事」は、藤田が平野政吉の求めに応じて、二人で構想した美術館を壁画で飾るために描かれた。縦365㌢、横2050㌢の大きさがあり、制作当時、世界一と言われた。
     昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、年中行事と祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで散りばめられている作品である。藤田はこの作品を描く前に「壁画は秋田の全ぼうが直ちに解る様に、あらゆる風俗又その時代的な意味に従って洩らさず描くつもりである」(「夕刊秋田」1936年《昭和11年》11月18日)と語っている。線と色彩の融合、生命力、パッションが画面に溢れており、藤田の特徴がよく表わされている。藤田はこの壁画を僅か15日で一気に描き上げ、完成後、「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたと言う。平野政吉は、藤田に当時の金額で、50万円支払ったとのことだ。当時、家が100軒建つ金である。

     「眠れる女」は藤田の4番目の妻、マドレーヌを描いた作品である。繊細な線描、乳白色の肌の秀作である。1936年(昭和11年)6月、マドレーヌが急死した際、経済的に困窮していた藤田が、平野政吉に売った作品であり、平野コレクションの藤田作品第一号となった。藤田はこの絵を夜行列車に乗り、一睡もせず、秋田に持ってきたという。平野の美術館建設構想を聞き、「お前、大丈夫だよ。ここは美術館になるんだからな」と言って秋田を去ったという逸話が残されている。
     この1936年(昭和11年)に平野政吉は、現在平野政吉美術館の大展示室に常設展示されている「北平の力士」、「五人女」、「カーニバルの後」など大作12点を、当時の金額5万円で購入している。当時、家が10軒建つ金額である。

     江戸時代から続く米穀商で、秋田県内有数の大地主の家に生まれた平野政吉は、経済的に恵まれ、月に米250俵分の金額を美術品収集に使うほどであったが、戦後の農地改革で多くの資産を失った。
     昭和42年、念願の美術館 (秋田県立美術館・平野政吉美術館) を建て終えた後、平野政吉は、秋田市大町にあった、藤田が「秋田の行事」を描き上げた米蔵や千秋矢留町の別邸などすべてを失った。
     現在、平野政吉を偲ぶものは、若い頃、藤田と二人で構想して以来、29年の歳月を費やし完成させた、P1010726 平野美術館(9-14)正倉院を模した高床式のこの美術館だけである。

     平野政吉は、その生涯をかけ、全財力を費やし、レオナール・フジタ(藤田嗣治)作品を始めとした貴重な美術品を収集した。
     美術館は、平野政吉の業績の集大成であり、秋田の地に収集した作品を恒久に保存、展示するために造られたものだ。
     平野政吉の業績を称える意味においても、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、平野コレクションとともに秋田の文化遺産として永く後世に伝えるべきである。


    <参考記事>
    平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶


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    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

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    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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    現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2013.11.01(17:57)|文化||TOP↑
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    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
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