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2012.10.01
 藤田嗣治は、1939年(昭和14年)4月、パリに戻った。3度目の渡仏であった。しかし、戦況が逼迫し、パリが陥落する直前の1940年(昭和15年)5月に、パリを離れざるを得なくなった藤田は再び日本に帰国した。
 帰国後、藤田は、一人の軍人の依頼により、「ノモンハン事件」を描いた『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(1941年)を制作し、美術界、軍などに高い評価を得た。以後、藤田は、中南米の旅から壁画制作へと続き、探し求めていたエコール・ド・パリ時代を越える新たな領域を見出だしたかのように「戦争画」を描き続けた。また、1941年(昭和16年)5月に帝国芸術院会員に推挙されるなど、日本画壇における地位を初めて獲得した。
 その後、藤田は自らが最高傑作と言う『アッツ島玉砕』(1943年)を制作。藤田は想像力を駆使し、凄惨な死闘を描き上げ、これを巡回展で見た人の中には、絵の前で祈り拝み、賽銭をなげ、供養を捧げる人もいたと言う。この作品は、藤田が取り組んできた壁画での群像表現が生かされた作品でもあった。「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)は、サイパン島陥落時の日本人住民の凄惨な姿を描いたものであったが、これが藤田の最後の戦争画になった。
 藤田の画業の中で、戦争画を描いたのは52歳から59歳までの7年間であったが、結果的に藤田の日本での評価とその後の運命に大きな影響を与えることになった。 
 終戦後、藤田とともに戦争画を描いたかつての仲間たちで構成された「日本美術会」が、藤田を筆頭にした戦争責任者のリストを作成したが、このリストは公表されなかった。しかし、戦争の最中、ほとんどの画家が戦争画を描いていた中、藤田一人に、戦争責任を負わせようとした日本美術界への幻滅の思いが、日本との決別を藤田に決意させたのだった。
 藤田は1949年(昭和24年)3月10日、「絵かきは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって下さい」と言い残し、日本を発ち、アメリカに旅立った。
 藤田は「日本に捨てられたのだ」と言う思いを心に閉じ込め、その後二度と日本に戻ることはなかった。

 藤田と長い交友があった秋田の平野政吉は、藤田嗣治の戦争画について次のように語っている。

 「藤田に一度言ったことがあった。『あれは純粋芸術ではない』。藤田は『記録画のようなものだから』と言ったきり、何も言わなかった」
 「藤田が、軍隊に従軍して、南方に出かけた時は、逆に、高揚して言った。『これは、私の奉公だ。絵でもって国のために戦う』 しかし、あれは藤田の本心ではなかった。芸術家に戦争は似合わない。『アッツ玉砕(アッツ島玉砕)』を描き上げた昭和18年には、秋田を訪れて『パリに帰りたい』と言い出した。私は、藤田の心情がよくわかった。過ごしにくい時代だった」…
(1983年《昭和58年》1月11日、朝日新聞「聞き書き わがレオナルド藤田」)

 1970年(昭和45年)、藤田嗣治の作品14点を含む153点の戦争画は、接収したアメリカから無期限貸与という形で日本に返還され、現在、東京国立近代美術館に保管されているが、平野政吉には、藤田の「アッツ島玉砕」が、藤田の遺志により贈られることになっていたと言うことである。



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提言:新秋田県立美術館は、収蔵作品を持たない企画展に特化した美術館にすべきである。




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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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  • 2012.10.01(16:40)|文化||TOP↑
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    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
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