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2011.09.02
 先日、当ブログの「平野政吉美術館の移転理由は何か」の記事についてのコメントが寄せられました。
 その内容は、真偽の程は不明ですが、千秋公園についての現知事の認識、業界からの圧力、平野美術館の場所に以前、別の建物があったことを挙げ、「始めに移転ありき、跡地に他の施設ありき」の計画に同調しているようなものでした。
 当ブログでは、平野政吉美術館の移転理由とされるものは、よく考えれば合理的な理由に乏しく、真の理由は他に存在するということをお伝え致しております。
 また、この移転計画は、平野政吉美術館が開館した経緯、平野政吉美術館の文化的価値、歴史的建造物としての価値、観光資源としての価値などを十分に検証し、認識することなく計画されており、建物と一体である藤田嗣治作品が移設されれば、貴重な文化財を喪失することになり、将来に亘って、秋田県や秋田県民の利益が損われることを危惧し、お伝え致しております。その点をご考慮、ご理解頂きまして、お読みくださいますようよろしくお願い致します。



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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • お知らせ (2011/08/27)


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  • 2011.09.02(14:17)|お知らせ||TOP↑
    2011.09.03
       P1010455 平野政吉 720x540.jpg   P1010452 藤田嗣治 720x540.jpg
     
     明治28年(1895年)、秋田市大町で江戸時代から続く米穀商の家に生まれた平野政吉は、若い頃、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭、操縦中に東京湾に墜落し、九死に一生を得るなど、破天荒な人物であったことが知られているが、経済的に恵まれ、十代の頃から美術品を収集していた。
     藤田嗣治は、明治19年(1886年)、東京府牛込区(現在の新宿区)新小川町で陸軍軍医の家に生まれ、若い頃から画家を志し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業後、フランスに渡り、パリ、モンパルナスに住み、エコール・ド・パリの一員としてアメデオ・モディリアーニ、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーなどと交友し、活躍、サロン・ドートンヌの審査員になるなどの名声を得た。藤田ならではのきめ細かで、美しい線描の技法、「乳白色の肌」「グラン・フォン・ブラン(すばらしい白の地)」と呼ばれた透明感に溢れた画風を確立し、1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を授与されるまでになった。
     昭和4年(1929年)、藤田は17年ぶりに帰国し、日本で初の個展が東京数寄屋橋の朝日新聞社五階で開かれた。平野政吉はこの個展で初めて藤田嗣治の絵を見たが、その時はただ「うまいな」と感じただけだったと言う。この年、平野政吉は、日本橋三越での個展、第十回帝展(現・日展)でも藤田の絵を見たと言う。
     昭和9年(1934年)、藤田嗣治と平野政吉は、上野の二科展の会場で初めて出会った。その時、平野政吉は自信満々に話す藤田の人柄と作品に強い衝撃を受けた。日本の洋画壇の巨匠、藤島武二との挨拶を終えた藤田嗣治に平野政吉が「私も藤島さんの絵が好きです」と話しかけた時、藤田は言った。「ああいう人の絵を買っておくと、やがてみんなただになりますよ。ぼくの絵は全部国宝ですからね」
     最初、平野政吉は藤田をおかしなこと言う人だと思ったと言う。しかし、藤田が描いた「カーニバルの後」(1932年)を見て、その細密な線描、画面全体を包み込む倦怠感、足元に散乱する紙テープの描写の正確さなどに心が動かされ、強い衝撃を受けた。そして、今まで自分が収集してきたものが、吹き飛ばされてしまう感じがしたと言う。その出会いから二人の交友が始まった。この頃から、平野政吉は、美術館を建てたい、そのために純粋芸術の藤田の絵を集めたいと思うようになったと言う。
     平野政吉は、若い頃から培ってきた審美眼で、藤田嗣治の作品と才能に着目し、その後、美術館建設の夢の実現のため、藤田嗣治作品を誰よりも熱心に収集していくこととなる。



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    18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
    美術館と自然光 … 1
    美術館と自然光 2 … 軽井沢千住博美術館の場合






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
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    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2011.09.03(15:00)|文化||TOP↑
    2011.09.07
     夏の日の終わりの平野政吉美術館と千秋公園の堀(大手門の堀)の風景をご紹介します。平野政吉美術館は、この風景とよく調和している。藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」は、この風景、この場所にあってこそ、「秋田の宝」であり、その存在感を高めている。

    P1010555 平野美術館と蓮 800x600-2.jpg


    P1010505 平野美術館 800x600-3.jpg


    P1010536 蓮 800x600.jpg

    【大手門の堀に群生した蓮】



    P1010534 大賀ハス 800x600-3.jpg

    【千秋公園内の胡月池】





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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
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    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
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    (2014年2月)





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    (2013年8月1日)




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     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
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  • 2011.09.07(08:00)|文化||TOP↑
    2011.09.12
     昭和11年(1936年)3月、藤田は外務省の依頼を受けた、映画「現代日本」の総監督として秋田を訪れた。前年の夏に旅行で秋田を訪れていたが、この時は、日本を欧米に紹介する目的で製作された映画の撮影で秋田にやって来たのだった。この時、藤田に弟子入りしていた平野の末弟、弘も同行していた。弘は学生時代に二科展で入選するなど、才能ある平野政吉の弟であった。そういった縁もあり、この時、平野は藤田を歓待し、いろいろと世話をした。
     この年の6月、藤田の妻、マドレーヌが日本で急死した。マドレーヌは藤田にとって、鴇田とみ、フェルナンド・バレー、ユキに次ぐ4人目の妻であったが、この時、藤田から葬儀費用の捻出などのために絵を手放したいという相談が平野政吉に持ち掛けられた。藤田の初期の傑作「眠れる女」(昭和6年作)であった。藤田独自の細やかな線描で描かれた、「グラン・フォン・ブラン(すばらしい白の地)」、「乳白色の肌」の傑作である。平野は即座に応じ、当時の金額で5万円を送金したと言う。当時家が10件買える金額であった。平野はマドレーヌの葬儀にも参列し、初七日にあたる7月5日、傷心の藤田に美術館建設の意を伝えたと言う。この話に藤田は大いに喜び、元気付けられたとのことだ。
     7月10日、藤田はマドレーヌを描いたこの「眠れる女」とともに秋田にやって来た。夜行列車で一睡もせずに秋田に持ってきたと言う。平野は、美術館を建てたいと藤田に話し、藤田は、また秋田に来るとだけ答えた。藤田は絵に「お前、大丈夫だよ。ここは美術館になるんだからな」といとおしそうに語りかけ、秋田を去っていったと言う。この「眠れる女」は平野政吉コレクションの藤田嗣治作品第一号となった。美術館建設への第一歩が踏み出されたのだった。



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  • 2011.09.12(17:35)|文化||TOP↑
    2011.09.21
     昭和11年3月の秋田訪問の際、藤田は、歓迎会の席の挨拶で「世界第一の芸術家、大日本帝国・藤田嗣治の名において、1923年(大正12年)、バチカン宮殿で、ローマ法王に謁見たまわった。エリゼ宮で、フランス大統領にも勲章をもらい、ベルギー皇帝からも栄誉を授かったのであります」と話し始めたという。藤田の語ったことはすべて真実であったが、伝説では、この話に平野政吉がカチンときて、「世界一というなら世界一の絵を描いて証拠を見せろ」と詰め寄り、藤田が「それなら、世界一の大きさの絵を描いて見せましょう」と言ったのが、「秋田の行事」誕生のきっかけであると伝えられているが、晩年、平野政吉は、実際は、藤田の迫力の前に圧倒されたのが真相であると語っている。二人の間に心の応酬があったとも伝えられるが、「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の固い友情、強い信頼関係の中から生まれたものと見るべきだろう。
     この年の7月以降、藤田は度々秋田を訪れ、平野政吉の美術館建設構想を受け、美術館を飾る壁画を制作することを明らかにした。その後、平野の案内で秋田市内の竿灯、日吉八幡神社山王祭などを見学し、スケッチをするなどした。また、平野は藤田のために、千秋矢留町に別宅を用意し、藤田の長期滞在に備えた。藤田が秋田に訪れるたびに二人は美術館の構想を深めていき、「秋田を第二の奈良に」「正倉院、法隆寺を秋田に拵えるつもりで」「壁画は奈良・東大寺の大仏に匹敵する世界一大きなものに」と話し合われていった。P1010416 平野政吉美術館w480.jpg
     そしていよいよ、昭和12年2月21日、平野政吉の米蔵で後に「秋田の行事」と言われる秋田の全貌を描いた壁画が描かれることになった。藤田は一気に15日間でこの壁画を描き上げた。興が乗った時は三晩位の徹夜も度々あったとのことだ。完成後、藤田は平野に「平野さん、無駄な材料を使わせて申し訳ない」と言って、紫の絵具一個と白の大ビン二個だけを差し出したと言う。平野は最初に藤田から言われた量の絵具を渡しただけだったので、藤田の天才ぶりに改めて関心したと言う。完成後、藤田は「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまでまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたとのことだ。
     「秋田の行事」は、昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、竿灯、梵天などの年中行事、祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで描かれている作品である。藤田はこの壁画を「秋田の全貌」が直ちに解るように、あらゆる風俗を時代的な意味に従って洩らさず描くという意図で描いた。藤田ならではの線と色彩が融合し、生命力、パッションが画面に溢れている。

     「秋田の行事」は、二人で構想した美術館に飾る壁画として描かれたものである。その後30年の時を経て完成した美術館は、日本宮殿を思わせる屋根の形、正倉院を模した高床式の造りなど藤田嗣治、平野政吉の構想を生かしており、「秋田の行事」は藤田に言われた通りの展示の仕方(注)になっている。
     平野政吉美術館とそこに展示されている「秋田の行事」は、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史を示す証であり、未来にこのままの形で伝える義務が私たちにある。この貴重な文化財を移設によって、価値を壊すようなことがあってはならない。


    (注) 「秋田の行事」は、藤田嗣治の助言により、床から6尺(約1.8メートル)上げた位置に据え付けられ、両端を少しずつ迫り出して据え付けられている。


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    平野政吉の業績…平野コレクションと美術館
    美術館と自然光について
    平野政吉のエピソード
    平野政吉美術館と一体である藤田嗣治作品
    平野政吉美術館の移転理由は何か [新規構成]
    平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 1 … 出会い
    美術館建設宣言と「眠れる女」 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 2
    18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
    美術館と自然光 … 1
    美術館と自然光 2 … 軽井沢千住博美術館の場合






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2011.09.21(15:21)|文化||TOP↑
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    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
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