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2013.09.01
現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている「秋田の行事」の展示状況
 この壁画のために設計された展示室は、上方から自然光が入り、大壁画の雄大さ、迫力を堪能できるゆったりとしたスペースである。

秋田の行事
(http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/leonardfoujita_tabi/33710.html)


屋根に付けられた丸窓から自然光を館内に採り入れている状況
 なだらかな曲線の壁面に反射しながら、大壁画「秋田の行事」に柔らかく自然光が降り注いでいる。
平野政吉美術館の内部(天井)-2
(http://weekly-akita.net/?day=20100311)


春日の平野政吉美術館の風景

P1010002_06 平野政吉美術館(2013年4月)


P1010022 平野政吉美術館(2013年4月)


P1010018 平野政吉美術館(2013年4月)


 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、藤田嗣治と出会い、藤田作品のコレクターとなった平野政吉の夢が実現した美術館である。

 藤田はこの美術館のために、巨大壁画「秋田の行事」を描き、床から6尺(1.8メートル)上げ、両端を少しせり出して展示するよう指示した。
 そして、美術館の採光を、ランスのフジタ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)と同じ、自然光を採り入れた形式にしてくれと、平野に伝えた。

 今、フジタは、自ら設計したフジタ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)で静かに永遠の眠りについている。

 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、平野政吉の夢の美術館であり、フランスでその生涯を終えたレオナール・フジタ(藤田嗣治)の尊い思い、祈りが込められた美術館である。

 この美術館は、後世の人々に末永く伝えるべき美術館である。

 この美術館を閉館にすることは、藤田嗣治と平野政吉の交友の歴史に幕を閉じることと同じである。

 そのような愚かなことはすべきでないだろう。



<関連記事>
秋田の文化遺産…平野政吉美術館
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
平野政吉の業績 … 平野コレクションと美術館
美術館と自然光について
平野政吉のエピソード
平野政吉美術館と一体である藤田嗣治作品


<お薦め記事>
藤田嗣治の壁画「秋田の行事」が描かれた時代の背景 ~ 一体感を持つ「平野政吉美術館」




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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



関連記事
平野政吉美術館の大展示室と藤田嗣治「秋田の行事」 ~ 永遠に

秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2013.09.01(08:00)|未分類||TOP↑
    2013.09.17
     レオナール・フジタ(藤田嗣治)は、生涯を通じて、世界中を旅をして回った画家として知られている。随筆集「地を泳ぐ」(1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])P1010446 藤田嗣治(セピア)-2「日本の旅・世界の旅」の頁によれば、フジタは地球2周は回った語り、ヨーロッパでは、フランス以外に、スイスのローザンヌ、パール、チューリッヒ、イタリアのミラノ、イギリス、ドイツ、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル…を訪れており、中南米では、ブラジル、アルゼンチン、ボリビア、チリ、ぺルー、メキシコ、キューバ、パナマ。アメリカではニューヨーク、ロサンゼルスなど各地に立ち寄っている。国内では、岐阜、長野、金沢、新潟、佐渡、秋田、青森、沖縄…など各地。さらにアジアでは中国の北京や香港、シンガポール、セイロン(現スリランカ)、アフリカではエジプトのカイロなども訪れている。
     フランスでレジオン・ドヌール勲章、ベルギーでレオポルド一世勲章などを受賞し、メキシコで大統領の歓迎を受けるなど、近代の日本人画家としては、唯一の世界で認められた画家と言えるだろう。
     そのフジタが、縦3.65メートル、横20.5メートルもある、巨大な壁画を残した地は、世界中で日本の一地方都市、秋田だけである。果たして秋田だけが、画家・フジタを魅了した土地であったのだろうか。フジタは壁画にどんな意図を持ったのだろうか。

     フジタは、書き残した随筆の中で、新潟、青森、沖縄など、行く先々の地で、その土地を称え、賛美する言葉を残している。

     例…新潟について「好きな町である。好きな美人の本場である」(随筆集「地を泳ぐ」1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])と語り、青森では「津軽海峡に光る夕日はパノラマの絶景であり、私は再び遊びたいと決心した」(随筆集「地を泳ぐ」1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])などと語っている。沖縄では「沖縄は龍宮であり夢の国である」(随筆集「地を泳ぐ」1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])などと語っている。

     では、何故秋田に巨大壁画が、誕生したのか。それには、秋田市に住む、希有な才能、桁外れの個性を持った、傑人、平野政吉の存在と彼との出会いがあったことに相違ないだろう。

     平野政吉は、明治28年(1895年)、秋田市大町で江戸時代から続く米穀商の家に生まれた。P1010451 平野政吉(セピア)経済的に恵まれ、子供の頃、画家を志した時期もあったが、十代の頃から美術品を収集していた。その一方で、秋田県内で初めて、オートバイやモーターボートに乗るなど新しもの好き青年であった。やがて、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭、操縦中に東京湾に墜落し、九死に一生を得る経験もしたと言う。破天荒で豪快な人物であったとして知られている。
     藤田とは、昭和4年の個展で初めて藤田の絵に出会い、昭和9年の二科展会場で初めて会ったという。
     自信に満ち溢れた人柄とその作品に魅了され、その後、平野は藤田作品のコレクターとなり、藤田美術館の建設構想を温めていったという。
     昭和11年、藤田の妻、マドレーヌが急死した際、平野は困窮していた藤田に葬儀費用を工面したり、親身になり慰め、その時、藤田美術館の建設を申し出て、傷心の藤田をとても喜ばせたという。
     藤田は平野の要請を受け、美術館の壁に飾る壁画を制作する意を伝え、「秋田の全貌」を題材にした壁画の制作へと向かっていったのである。

     その後、半年掛けて藤田は、秋田を取材し、構想を練り上げ、昭和12年2月21日にいよいよ制作を開始し、3月7日、後に「秋田の行事」と呼ばれる、縦3.65メートル、横20.5メートルの大壁画を一気に完成させたのである。制作時間は、174時間であった。
     秋田の、自然、風俗、祭り、産業、歴P1010240_03 「秋田の行事」-梵天(800x600)史…… 時代の空気、人々の息遣いまで描き切ったこの大作に平野は、その報酬として、当時の金で、50万円を支払ったという。当時、家が100件買える金額である。平野は、美術品収集に、金に糸目をつけず、月に米俵250表分をもつぎ込んだというが、この平野でなければ、この大作を藤田に描かせることは出来なかっただろう。

     藤田は、秋田を題材に壁画を描き切ったが、藤田が求めたもの、絵を通して伝えたかったものは、日本そのものではなかったか。秋田の人々の暮らし、風景、祭りの中に、日本を見出だしたのではないか。
     エコール・ド・パリの一員として一世を風靡したパリを離れ、中南米への放浪の旅の末、非ヨーロッパ的世界に眼差しを向け、画題を求め、辿り着いた作品が「秋田の行事」であった。その誕生には、藤田の才能を誰よりも見抜いていた、秋田の美術品コレクター、平野政吉との出会いがあったのだ。

     一方で、平野政吉は美術館建設に己の生涯を懸けた人でもあった。
     昭和30年に開催された「平野コレクション展」(朝日新聞主催)の図録によると、「子供の頃から美術館の建設を専念に念願として参りました」とある。
     実際に、「秋田の行事」完成の翌年、昭和13年には、美術館建設に着手したが、戦時中の鉄材の使用制限のため、止む無く中断となっている。
     また、昭和31年発行の雑誌の中では「『一日も早く美術館をつくり日本のために寄付する』のがいまの念願」(1956年2月P1010180_03 平野政吉美術館(2013年6月)26日発行、アサヒグラフ)と心境を語っている。
     美術館建設への情熱を一貫して持ち続け、最初の建設着手以来、29年の歳月の末完成させた、念願の秋田県立美術館(平野政吉美術館)開館の日(1967年5月5日)、平野は涙を流し喜んだことが家人によって伝えられている。

     この傑出した美術品コレクターで、藤田を世界一の画家であるとして畏敬の念を持っていた平野政吉との物心両面に及ぶ深い交友と強い信頼の絆が、藤田の心を揺り動かし、平野が表明した美術館建設構想を受け、美術館の壁に飾る壁画の制作を決意させたことは間違いない。

     平野政吉美術館は、生涯を美術館建設に捧げた平野政吉の供養の碑であり、フランス・ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母礼拝堂)に眠るレオナール・フジタの、遠い秋田に在る壁画、「秋田の行事」への思い、そして秋田、日本への思いを受け止める碑でもある。

     この美術館を本来の姿に戻すべきであると強く訴えたい。


    <参考記事>
    平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶


    <関連記事>
    平野政吉の業績 … 平野コレクションと美術館
    平野政吉のエピソード
    平野政吉が語った藤田嗣治作品の魅力
    平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 1 … 出会い
    美術館建設宣言と「眠れる女」… 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 2
    大壁画「秋田の行事」誕生、美術館の壁画に … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 3
    18年ぶりの再会、念願の美術館建設の実現 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 4
    最後の作品「平和の聖母礼拝堂」、永遠の別れ、永遠の友情 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 5
    藤田嗣治と平野政吉の友情そのものが秋田の財産、その証である現県立美術館(平野政吉美術館) … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 6
    藤田嗣治が語った「壁画」と、「秋田の行事」、平野政吉のトロッコ構想
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の丸窓について
    レオナール・フジタ「平和の聖母礼拝堂」と「秋田の行事」
    稀有なる秋田の先人・平野政吉
    先人、平野政吉が後世に残してくれた「秋田の文化」
    レオナール・フジタ最後の作品「平和の聖母礼拝堂」と平野政吉美術館
    平野政吉美術館について
    平野政吉美術館、創設寄附者ごあいさつ


    <お薦め記事>
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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
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    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
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    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

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    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.09.17(04:40)|文化||TOP↑
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    Author:akitabunka

    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
    性別 : 男

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