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2013.11.01
 平野政吉は10代の頃から93歳で亡くなるまで生涯をかけ、その財力の全てを費やし、卓越した審美眼で美術品を収集し続けた。そのうち財団法人平野政吉美術館に寄贈された作品は601点で、藤田嗣治作品は101点である。P1010420門800x600.jpg

 大壁画「秋田の行事」は、藤田が平野政吉の求めに応じて、二人で構想した美術館を壁画で飾るために描かれた。縦365㌢、横2050㌢の大きさがあり、制作当時、世界一と言われた。
 昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、年中行事と祭りが大迫力で描かれ、秋田の産業、歴史まで散りばめられている作品である。藤田はこの作品を描く前に「壁画は秋田の全ぼうが直ちに解る様に、あらゆる風俗又その時代的な意味に従って洩らさず描くつもりである」(「夕刊秋田」1936年《昭和11年》11月18日)と語っている。線と色彩の融合、生命力、パッションが画面に溢れており、藤田の特徴がよく表わされている。藤田はこの壁画を僅か15日で一気に描き上げ、完成後、「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」と興奮し、語っていたと言う。平野政吉は、藤田に当時の金額で、50万円支払ったとのことだ。当時、家が100軒建つ金である。

 「眠れる女」は藤田の4番目の妻、マドレーヌを描いた作品である。繊細な線描、乳白色の肌の秀作である。1936年(昭和11年)6月、マドレーヌが急死した際、経済的に困窮していた藤田が、平野政吉に売った作品であり、平野コレクションの藤田作品第一号となった。藤田はこの絵を夜行列車に乗り、一睡もせず、秋田に持ってきたという。平野の美術館建設構想を聞き、「お前、大丈夫だよ。ここは美術館になるんだからな」と言って秋田を去ったという逸話が残されている。
 この1936年(昭和11年)に平野政吉は、現在平野政吉美術館の大展示室に常設展示されている「北平の力士」、「五人女」、「カーニバルの後」など大作12点を、当時の金額5万円で購入している。当時、家が10軒建つ金額である。

 江戸時代から続く米穀商で、秋田県内有数の大地主の家に生まれた平野政吉は、経済的に恵まれ、月に米250俵分の金額を美術品収集に使うほどであったが、戦後の農地改革で多くの資産を失った。
 昭和42年、念願の美術館 (秋田県立美術館・平野政吉美術館) を建て終えた後、平野政吉は、秋田市大町にあった、藤田が「秋田の行事」を描き上げた米蔵や千秋矢留町の別邸などすべてを失った。
 現在、平野政吉を偲ぶものは、若い頃、藤田と二人で構想して以来、29年の歳月を費やし完成させた、P1010726 平野美術館(9-14)正倉院を模した高床式のこの美術館だけである。

 平野政吉は、その生涯をかけ、全財力を費やし、レオナール・フジタ(藤田嗣治)作品を始めとした貴重な美術品を収集した。
 美術館は、平野政吉の業績の集大成であり、秋田の地に収集した作品を恒久に保存、展示するために造られたものだ。
 平野政吉の業績を称える意味においても、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、平野コレクションとともに秋田の文化遺産として永く後世に伝えるべきである。


<参考記事>
平野政吉、1955年(昭和30年)開催「平野コレクション展」での挨拶


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平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
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<お薦め記事>
藤田嗣治の壁画「秋田の行事」が描かれた時代の背景 ~ 一体感を持つ「平野政吉美術館」




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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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秋田県立美術館(平野政吉美術館)の閉館、大壁画「秋田の行事」展示室の閉鎖及び「秋田の行事」、藤田嗣治作品の移転について
美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」



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  • 2013.11.01(17:57)|文化||TOP↑
    2013.11.27
     華やかであったエコール・ド・パリの時代が終焉を告げ、藤田は、自分の将来を何とかしたという思いから新たな画境を求め、パリを離れ、ラテンアメリカ各地に2年に及ぶ放浪の旅に出た。異文化体験と、メキシコでのリベラ、オロスコなどの壁画との出会いがあり、日本に戻った後、藤田は、土着的な、民俗的なものに目を向けるようになり、各地で壁画制作に挑むようになった。
     そして、当時の日本に「壁画の時代」を築くことに意欲を燃やし、1936年(昭和11年)2月に発表した「現代壁画論」の中で、

    「吾等すべてが共力してこの壁画の時代を作れば、結局国の富、国の誇りを作り出す訳である」
    「画其の物の本質的条件に適ひ、更に独創的な天分の発表と制作であったらばその画は永久に国宝として、国の誇りを増す……」
    (「現代壁画論」より)


    などと語っている。

     自分自身についても「更に数をふんで何れのP1010454 藤田嗣治日にか満足に近い大幅の出現を夢み切々と実行している次第である」(「現代壁画論」より)として、大作壁画の実現に並々ならぬ意欲を燃やしていたのである。

     翌1937年2月に描かれた、壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)は、実は藤田自身が夢みた、満足に近い大幅であり、快心作であることが窺われる。
     少なくても藤田が、快心の作を描くという意識のもとに描いた作品であることに違いない。

     藤田は、15日間、174時間というスピードで壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)を完成させた。これは、早筆で知られる藤田がそのスピードに挑んだものではあったが、必ずしも藤田の壁画制作にとって特別なことではなかった。
     日本に帰国後、最初に描いた壁画「大地」の制作日数と時間は、31日間、360時間であったし、メキシコで観たリベラは、壁画を1日に10メートル四方も描いていたことを藤田は知っていた。

     壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)完成後、藤田は「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」(1983年1月9日、朝日新聞「聞き書き・わがレオナルド藤田」)と興奮して語り、普段は決して口にすることのない酒を一杯飲み干し、祝ったと伝えられている。
     また、平野政吉には、天皇陛下が見に来られたら、こう説明申し上げてくれと詳細に指示したことが伝えられている。

    「壁画時代」の到来を願い、

    「多数の画家によって総べての形によって日本の到る処の地に名物の壁画を作成されん事を切望する次第である」(「現代壁画論」より)

    と藤田は語っている。
     平野政吉が、藤田に全国の道府県の壁画を描いてもらうことを夢みていたのと同様に、藤田は全国各地に名物になるような壁画が、多数の画家によって制作されることを夢み、願っていたのである。

     その藤田の夢が、日本で唯一、実現されたのがP1010455平野政吉 800x600、壁画「秋田の全貌」(後に「秋田の行事」と呼ばれる)であって、それを実現させたのが、唯一、秋田の美術品収集家・平野政吉であったのである。

     画家・藤田嗣治の夢、理想の実現に、財を惜しまず尽力した平野政吉の功績は、藤田嗣治(レオナール・フジタ)の画業と近代絵画史を語るうえで、非常に大きいものがある。

     そういった事実を直視すれば、平野政吉が藤田嗣治の助言を忠実に守り、建てたという平野政吉美術館は、二人が共同して建てた美術館であるわけで、この美術館から、平野政吉が命を懸け収集したコレクションを切り離し、移すという行為は、尋常でない行為に思えるのである。


            P1010180_03 平野政吉美術館(2013年6月)


    <関連記事>
    藤田嗣治が壁画制作において重視した「広い面積と遠距離から眺める事、下方から見上げる事の考慮」― それらが反映された平野政吉美術館

    「秋田の行事」の展示状況


    <お薦め記事>
    藤田嗣治の壁画「秋田の行事」が描かれた時代の背景 ~ 一体感を持つ「平野政吉美術館」






            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

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     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
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  • 2013.11.27(05:30)|文化||TOP↑
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    Author:akitabunka

    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
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