秋田の文化遺産を考える文化
> 最後の作品「平和の聖母礼拝堂」、永遠の別れ、永遠の友情 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 5

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2011.11.15
 1966年(昭和41年)、レオナール・フジタ(藤田嗣治)は自らの画業の集大成として、フランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」の制作に取り組んでいた。フジタは建物の設計、壁画、ステンドグラス、庭石の配置、彫刻などを自らの手で制作した。
 フジタは1964年(昭和39年)、南フランスのニース郊外にある画家マチスが建て、眠るロザリオ礼拝堂を訪れている。
 フジタが作ろうとした礼拝堂も自らが永眠する場所であったに違いない。
 1966年(昭和41年)6月、礼拝堂の建物は完成した。フジタは直ぐ礼拝堂の壁を飾るフレスコ画の制作に取りかかった。フレスコ画制作の作業は過酷を極めた。壁に塗った漆喰が乾く前に絵の具で描き、仕上げるため、正確さ、素早さが要求された。フジタは79歳にしてこの技法に初めて挑み、作業は早朝から深夜に及ぶこともあった。
 フジタ芸術の集大成であるフレスコ壁画は、8月31日完成した。キリストの誕生、復活などの場面がフジタの繊細な技法で描かれている。
 過酷なフレスコ画制作の作業は、フジタの体を蝕んでいた。
 フジタは12月にパリの病院に入院、翌年10月、スイス、チューリヒの病院に転院、1968年(昭和43年)1月29日、フジタは膀胱がんのためチューリヒの病院で81歳の生涯を閉じた。

 訃報を聞いた平野政吉は、フジタの葬儀に参列するため、フランスに向かった。葬儀は、2月3日、ランスのノートルダム大聖堂で行われた。平野政吉は紋付羽織袴の正装で参列した。フジタとの永遠の別れとなった。
 フジタの遺体はランスの礼拝堂に安置された後、1971年(昭和46年)パリ郊外ヴィリエ・ル・バークルの墓地に埋葬されたが、その後、1998年(平成10年)、君代夫人がフジタの日記を発見し、その中で「終生の舞台とした(フジタ)礼拝堂の中で眠るつもりだ」と記していたことが確認され、2003年(平成15年)10月6日、再び「フジタ礼拝堂」(平和の聖母礼拝堂)に移送され、埋葬された。

 フジタとの約束であった美術館の建設を成し遂げた平野政吉は、P1010032_01 平野美術館窓 秋 800x600.jpgフジタとの別れから21年後、1989年(平成元年)3月13日、93歳の生涯を閉じた。「男子一生の命懸けて懸けがいのある男とめぐり会えた」と家人に言い残し、永眠した。フジタとの永遠の友情の証であるコレクションと美術館を残し、旅立った。

 美術館は、1966年(昭和41年)の訪問の際、フジタからアドバイスされた通り、平和の聖母礼拝堂と同じ採光の形式が取られており、フジタが、平野政吉と秋田のために描いてくれた大壁画「秋田の行事」には柔らかく自然光が降り注いでいる(注)。平野政吉美術館と収蔵されている平野政吉のコレクションは、秋田の文化遺産であり、日本の文化遺産である。


(注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。


ランス フジタ礼拝堂(平和の聖母礼拝堂)の画像(Google画像検索)

「秋田の行事」の画像(Google画像検索)


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        P1010726 平野美術館(9-14)


藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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美の巨人たち 藤田嗣治 「秋田の行事 」 ― 視聴出来なかった秋田県の方々に、一部誌上再現!
現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている藤田嗣治「秋田の行事」





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  • 2011.11.15(01:35)|文化||TOP↑
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    Author:akitabunka

    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
    性別 : 男

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