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2013.04.28
 「私と別れ際、藤田は『美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ』と注文をつけた。私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ。藤田は、スケッチをくれた。これが最後の対面となった。」

 平野政吉は、1983年(昭和58年)1月12日に朝日新聞に掲載された「聞き書き わがレオナルド藤田」の中で、1966年(昭和41年)に美術館建設の報告を兼ね藤田に会いに行った際の様子を語り、藤田にそう助言されたと語っている。P1010425E7AA93800x600 平野政吉美術館の採光
また、秋田県内の財団法人発行の雑誌の中で平野政吉の対談が掲載されており、同様に、藤田を訪ねた際、美術館の屋根はランス礼拝堂のような採光のとれる丸窓にしてくれと言われ、宮殿造りのギリシャ式柱廊の美術館に丸窓をつけて画伯の心を忠実に表わしたと語っている。

 藤田は、自らの画業の集大成として、フランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」の設計、壁画、ステンドグラスの制作に取り組み、1966年(昭和41年)10月に完成させているが、その壁画制作に入る直前に、平野政吉は藤田に会い、美術館の採光方式をアドバイスされている。

 1968年(昭和43年)1月29日、藤田はスイス、チューリッヒで亡くなったが、今は生前の藤田の希望により、自ら設計したランスの「平和と聖母礼拝堂」に眠っている。

 平野政吉は、美術館をこのランスの「平和と聖母礼拝堂」と同じ採光形式にするよう、藤田に託されており、現在の平野政吉美術館は、ランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じる、藤田の魂が込められていると言える。また、「平和の聖母礼拝堂」に描かれた藤田の最後の大作であるフレスコ壁画と同じように、大壁画「秋田の行事」には柔らかな自然光が降り注がれている(注)。

 世界で最も著名な日本人画家、レオナール・フジタ(藤田嗣治)が深く関わった建築物は、フランス、ヴィリエ・ル・バークルの住居兼アトリエであった「メゾン・アトリエ・フジタ」、ランスの「平和の聖母礼拝堂」があるが、日本では、平野政吉美術館以外にあるだろうか。  

 平野政吉美術館(秋田県立美術館)は、千秋公園の緑に溶け込んだ佇まいの中に平野政吉とレオナール・フジタ(藤田嗣治)の交友の歴史を示しており、貴重な秋田の文化遺産として後世に残すべきである。


(注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。


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藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

(参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

(2015年9月)



新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

以前より展示室が狭くなった。
「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
階上の左右から見ることが出来なくなった。
照明の照り返しがきつい。
2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

などの声が上がっています。
(2014年2月)





 「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
(2013年8月31日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
 平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
(2013年8月1日)




 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
 

 ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
(2013年5月15日)



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  • 2013.04.28(17:05)|文化||TOP↑
    2013.04.25
     平野政吉美術館に収蔵されている作品は、すべて平野政吉が生涯をかけ、財力の全てを費やして収集した作品である。藤田嗣治作品は101点あり、これだけの数の藤田作品を収蔵している美術館は世界でも稀であるとのことだ。 
     この平野政吉美術館から、藤田嗣治作品だけを切り離し、移設させようとする計画がある。進めている人たちは、世界的に著名な建築家、安藤忠雄氏設計の建物と藤田作品で街の賑わいに繋げたいと主張しているようだが、安藤忠雄氏設計の美術館は全国に相当多数ある。主なものだけで、香川県直島地中美術館、広島県尾道市立美術館、岡山県成羽町美術館、兵庫県立美術館、京都府大山崎山荘美術館、長野県小海町高原美術館、調布市東京アートミュージアム、国際芸術センター青森などがある。近年は中東にも進出している。(アブダビ海洋博物館、バーレーン遺跡博物館) 昨年も山梨県北社市に美術館(光の美術館)が造られている。全国的に見た場合、話題性があるわけでも、希少価値があるわけでもない。また、美術館を賑わいと結びつける発想が貧困なものに思える。
     さらに、秋田で計画されている建物は、2階部分屋上にプールのような水槽を造るとのことだ。安藤氏の作品によく見られる「水」を題材としたものであり、藤田嗣治作品との関連性は全く見受けられない。

     平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は、藤田嗣治と物心両面の深い交友があった、稀有な秋田の先人、平野政吉が「秋田」の地に収集した作品を残すために、多くの困難を乗り越え、29年の歳月を費やし完成させた美術館である。そして、レオナール・フジタ(藤田嗣治)が最後に制作したランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じる藤田の理念と尊い思いが込められている美術館である。 
     平野政吉美術館(現秋田県立美術館)と藤田嗣治作品は一体であり、この美術館こそが唯一の平野コレクション、藤田嗣治作品の保存、展示、公開の場所といえる。これからもこの平野政吉美術館を秋田市民、秋田県民、国内や世界中の藤田嗣治ファンや美術を愛好する人々が、藤田嗣治作品を鑑賞する場として、世界に誇れる秋田の文化遺産として、末永く後世に伝えていくべきである。



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    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





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    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




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     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.04.25(05:30)|文化||TOP↑
    2013.04.24
     1968年2月、パリに一人の日本人が訪れた。日本古来の伝統的な紋付羽織袴姿で訪れたその人こそ、秋田からレオナール・フジタ(藤田嗣治)の葬儀に参列するためにやってきた平野政吉であった。フジタの葬儀はランスのノートルダム大聖堂で盛大に執り行われた。1934年(昭和9年)、東京都内の美術展で出会って以来、交友のあった平野政吉と藤田嗣治にとって最後の別れとなった。平野政吉は、藤田嗣治作品の収集家、パトロンとして、フランスにおいても有名であり歓迎された。
     「もう、先生の作品を購入できなくなった」 平野政吉は悲しみ嘆いた。
     平野政吉はその2年前、1966年(昭和41年)5月に、パリ郊外のヴィリエ・ル・バークルに住むフジタを訪ねていた。二人にとって念願であった美術館建設の報告のためであった。平野は完成する美術館へフジタを招待したが、高齢を案じた夫人の反対で実現しなかった。しかし、その時、美術館の採光形式について、貴重なアドバイスをしてもらっていた。
    blog_import_4f812ceaf1b1a 平野政吉美術館の採光-2
     「美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ」注、7月29日の記事参照
     フジタは、自らの画業の集大成としてランスで「平和の聖母礼拝堂」の設計、壁画、彫刻、ステンドグラスの制作に取り組んでいたが、美術館の採光をその「平和の聖母礼拝堂」と同じ採光の形式にするよう、平野政吉に託したのであった。
     「私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ」 平野政吉はそう語っている。注、7月29日の記事参照
     フジタの遺体は紆余曲折の末、2003年より、ランス「平和の聖母礼拝堂」に移され、永眠している。「終生の舞台とした(フジタ)礼拝堂の中で眠るつもりだ」と記した日記が発見されたためであった。 (注、11月15日の記事参照
     フジタが永遠の眠りにつく「平和の聖母礼拝堂」と平野政吉美術館はフジタの助言によって、思いが結びつき、平野政吉美術館の丸窓から降り注ぐ自然光は、レオナール・フジタ(藤田嗣治)の尊い、最後の思い、願いそのものであるように著者には感じられる。


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  • 2013.04.24(03:07)|文化||TOP↑
    2013.04.01
     千秋公園の堀の雪もすかっり消え、春の訪れを感じさせる平野政吉美術館の風景をご紹介します。堀の背後に優美に佇む美術館と館内に収蔵、展示されている藤田嗣治の「秋田の行事」は、どちらも秋田の誇れる文化遺産、昭和遺産であり、未来へと残すべきものである。平野政吉と藤田嗣治が歩んだ「昭和」という一時代を伝えてくれる貴重な証でもある。



    P1011108 平野政吉美術館(2013年3月)


    P1011121 門付近から見た平野政吉美術館(2013年3月)


    P1011139 平野政吉美術館(2013年3月)


    P1011113 大手門の堀と平野政吉美術館(2013年3月)


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    藤田嗣治「秋田の行事」の魅力
    藤田嗣治「中南米の旅」から「秋田の行事」へ
    藤田嗣治「秋田の行事」と平野政吉美術館は一体の文化遺産
    提言:新秋田県立美術館は、収蔵作品を持たない企画展に特化した美術館にすべきである。
    現秋田県立美術館の展示室が優れているこれだけの理由






            P1010726 平野美術館(9-14)


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  • 2013.04.01(06:00)|風景||TOP↑
    2013.03.15
    P1010446 藤田嗣治(セピア)-2 藤田嗣治は、1913年(大正2年)6月、フランスに渡り、独自の画風を切り開き、ヨーロッパ画壇で高く評価され、成功を収め、1929年(昭和4年)9月、17年ぶりに帰国を果たした。

     藤田嗣治と平野政吉は、1934年(昭和9年)上野の二科展の会場で初めて出会い、藤田の作品と藤田の圧倒的な自信を目の当たりにした平野は、強い衝撃を受け、それ以後、平野は藤田作品の熱心なコレクターになり、交友を重ねていった。
     この二人の友情が一層深まったのは、P1010451 平野政吉(セピア)藤田の妻、マドレーヌが日本で急死した際、平野政吉が葬儀のための費用を工面したり、悲嘆にくれる藤田を慰め、励ましたりしたことによる。

     「このメキシコ風の家で、フジタはフランス婦人マドレエヌを失った。………それから間もなく、秋田から平野政吉という人が上京してきて、あの悲嘆にくれたフジタの顔を見てたまらなくなったので、フジタを激励するために秋田にフジタ美術館を作りたいと申出てきた。それがフジタと平野氏を結ぶ縁であったとわたしは記憶している」(蘆原英了「フジタの画室など―平野コレクションを観る―」、「みづゑ」1955年《昭和30年》12月号)

     その後、平野政吉は、美術館に飾る壁画 ― 後に「秋田の行事」と呼ばれる ― を藤田に描かせることに成功し、この壁画と自らが収集したコレクションを国民、秋田県民に公開するための美術館の建設のために、残る人生を懸けることになった。
     藤田嗣治は、1949年(昭和24年)3月、日本を離れ、その後、二度と日本の土を踏むことがなかったが、日本を離れる前、平野政吉に次のように話したとのことだ。

     「先生は、レオナルド・ダ・ヴィンチを大変尊敬していたが、いよいよ日本を去る時私に、『平野さん、これはあなたへのお礼としてあなたにだけに言いのこしておくが、あのモナリザはにせものだよ』という。『それはまたどうして?』と、聞き返すと、先生は、『いや、あのモナリザという作品は、私より下手だから』といったものである」(1977年《昭和52年》、藤田嗣治展図録)

     藤田は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチよりも自分が上だとまで話したという。内に秘めていた揺るぎない「自信」を、親友の平野政吉であればこそ打ち明けたのであろう。
     藤田嗣治と平野政吉は、それ程までの心が打ち解けた、深い友情を築いていたと言えよう。

     世界画壇で最も高く評価されている日本人画家、藤田嗣治(レオナール・フジタ)の実力、才能を見抜き、世界に誇れるコレクターになった平野政吉。
     藤田嗣治との出会いを生涯の誇りにし、生涯「先生」と呼び、敬愛していた平野政吉の存在そのものが、秋田の誇りであり、財産である。
     そして、この二人の友情そのものが、秋田の宝である。その友情を今に伝えているのが、藤田の理念が込められている現秋田県立美術館(平野政吉美術館)なのである。



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    美術館建設宣言と「眠れる女」 … 平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史 2
    現秋田県立美術館の展示室が優れているこれだけの理由





            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.03.15(22:08)|文化||TOP↑
    2013.02.28
     76年前のこの時期 ―1937年(昭和12年)2月21日から3月7日 ― 、藤田嗣治は、平野政吉邸の米蔵で後に「秋田の行事」― 「秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図」 ― と呼ばれることになる大壁画を描いていた。その後、30年の時を経て、平野政吉が、日本のため、秋田のために、この壁画を公開するために完成させたのが平野政吉美術館(秋田県立美術館)である。
     藤田嗣治の理念が込められていることを誇りにし、館内で訪れる人々に説明していた姿が思い出されます。

    P1011078 平野政吉美術館(2013年2月)
    大手門の堀を前景にした平野政吉美術館


    P1011090 平野政吉美術館(2013年2月)


    P1011092 平野政吉美術館(2013年2月)


    P1011096 平野政吉美術館(2013年2月)


    P1011075 平野政吉美術館(2013年2月)
    穴門の堀と遠景に見える平野政吉美術館





            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
    開催中の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」 …… 「なぜ この美術館が閉館なのか?」という疑問

    (2015年9月)



    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
    あそこへ行きさえすれば、という大きな拠り所が失われた。

    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.02.28(22:00)|風景||TOP↑
    2013.02.23
     藤田嗣治は、1910年代~1920年代にエコール・ド・パリの一員として活躍したパリを離れ、1930年からアメリカ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコ、ペルー、キューバなどへと放浪の旅に出たが、1933年に日本に帰国した。
     帰国後、藤田は、1934年に銀座聖書館のブラジル珈琲宣伝所壁画、1935年に大阪そごう百貨店特別食堂壁画、東京銀座コロンバン天井画を描いたが、その後出版された随筆集「地を泳ぐ」(1942年《昭和17年》、書物展望社[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])の中で、壁画の制作について、

     「自分は、さきにブラジル珈琲店の壁画を描き、大阪十合の壁画を描き、今度銀座コロンバンの天井を描いたが、これについても画家の街頭進出を慫慂したいと思う」
     「画家が、いたずらに名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく、大衆のための奉仕も考えなければならないと思う。国民全部に、美術愛好と鑑賞の機会を、解放することに努力しなければならぬ」(1942年《昭和17年》、書物展望社、昭和10年付記述[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])
    と述べている。
     「地を泳ぐ」は昭和17年に出版されたが、この部分「壁画について」の文は、昭和10年付けで記述されている。(注 「地を泳ぐ」は、昭和17年に出版されたが、昭和8年から昭和16年にかけて藤田嗣治が新聞、雑誌に発表した随筆を集めている
     また、「コロンバン氏が、この挙を敢てして、銀座をして美術に眼を開かしめた功は、大いに讃ゆべきである」(同前)
    とも述べており、前の記述は、昭和10年に完成した銀座コロンバン天井画を称賛する意味が込められていたと思われる。
     パリでは、自分の絵がサロンで一部の富裕層、愛好家を喜ばせていたに過ぎなかったことを省みて、

     「画家が、いたずらに名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく、大衆のための奉仕も考えなければならないと思う」(同前)
     「国民全部に、美術愛好と鑑賞の機会を、解放することに努力しなければならぬ」(同前)
    と述べたものである。

     大壁画「秋田の行事」は、その後、1937年(昭和12年)に制作されており、「秋田の行事」を意識して書かれたものでないことは明らかである。

     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)に展示されている「秋田の行事」は、P1010933 平野政吉美術館(2012年11月 晩秋)平野政吉が切り出した美術館建設構想を藤田が受け、そこに飾る壁画として描かれることになったものであり、支援者であり、依頼主の平野政吉個人に捧げる大壁画という色合いが濃い作品である。
     前述の珈琲店、百貨店食堂に飾るための壁画、天井画とは、明らかに意味合いが異なっている。
     「秋田の行事」の制作について、藤田嗣治は、「秋田の全ぼうが直ちに解る様に、あらゆる風俗又その時代的な意味に従って洩らさず描くつもり」(1936年《昭和11年》11月18日、「夕刊秋田」)とし、僅か15日間、合計174時間で描き上げた壁画を前に、「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまで破られまい」「四百年後に、再びこの壁画の前に立ってみたい」(1983年《昭和58年》1月9日、朝日新聞「聞き書き わがレオナルド藤田」)と興奮し、語っていたとのことだ。スピード感、色彩の多彩さ、画面の構成、表現力など、それまでに培ってきた画技が発揮され、類稀なその能力と、世界一の画家であるという自負とその証明のための壁画制作であったと言えるのではないか。
     「画家が、いたずらに名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく、大衆のための奉仕も考えなければならないと思う」(1942年《昭和17年》、書物展望社、昭和10年付記述[復刻:1984年《昭和59年》、講談社])と語ったブラジル珈琲宣伝所壁画やコロンバン天井画の制作時とは、別の次元の歴史に自らの名を残すという意味が込められていたと言えるだろう。
     また、完成した作品には、「為 秋田平野政吉 嗣治 Foujita 1937 昭和12年 自二月廿一日 至三月七日 百七十四時間完成」と署名されている。
     非常に稀な為書があることからも、平野政吉個人のために制作された作品であったことが分かる。
     平野政吉は何と、全国のすべての道府県の壁画を藤田に描いてもらい、長屋形式の美術館を建て、その前に線路を敷き、訪れた人がトロッコに乗り、楽しんでもらうという、途轍もない壮大な計画を持っていたというが、「棒ほど願って、針しか残らなかった」と生前語っていたとのことである。
     平野政吉は「秋田の行事」が完成した翌年に「私一人だけの宝ではない。世界の財産をみんなに見てもらいたい」と、早速、美術館建設に着手しているが、戦時中の鉄材使用制限のため、已む無く断念に至っている。紆余曲折の末、29年後の1967年に、秋田県民の大きな期待と祝福の中、念願の現秋田県立美術館(平野政吉美術館)が開館したのである。

     秋田県がウェブサイトで、新県立美術館建設の理由として、現県立美術館が入館者が少なく、「藤田画伯の思い『画家は大衆のための奉仕も考えなければならない。画家の街頭進出を大いに奨励したい』とはかけ離れた状況」(県ウェブサイト)であると言っているが、藤田が銀座コロンバン天井画の完成を称えて述べた言葉を引用し、入館者数と現県立美術館の建物を結びつけたものであり、こじつけである。美術館の入館者数は、広報宣伝の問題である。

     新県立美術館建設の真の理由は、再開発地区に新美術館を建て、現美術館跡地に他の施設を新築(現在は、現美術館の建物は残し、他の施設を移すに変化か)すると言う土建屋的な発想の理由でしかない。



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            P1010726 平野美術館(9-14)


    藤田嗣治は、壁画「秋田の行事」が完成した当時から、美術館は、自然光による採光形式にしたいという意向を持っていた。
    1963年、平野政吉の親族に渡した美術館のイメージ図にも、壁画を大空間に展示し、上方から自然光を取り入れるよう描かれている。
    1966年5月、美術館建設の報告に訪れた平野政吉に、美術館の屋根は採光の形式にするよう、助言している。

    (参照 … 発見された「幻の藤田美術館」の設計図と、現県立美術館への藤田の助言を示すメモと手紙
    平野政吉美術館(秋田県立美術館)の採光について
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    新県立美術館に移された「秋田の行事」を観た方々から、

    以前より展示室が狭くなった。
    「秋田の行事」が、窮屈で縮んで見える。
    階上の左右から見ることが出来なくなった。
    照明の照り返しがきつい。
    2階から見ると目線から高すぎる。3階から眺めると壁画が低すぎる。
    展示室に奥行きがなく、この壁画の迫力が全く感じられない。
    以前は圧倒するほどの存在感があったが、この絵の輝きが失われた。
    新しい建物の現代的な感じと秋田の行事が違和感ある。
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    などの声が上がっています。
    (2014年2月)





     「秋田の行事」は8月31日に、平野政吉と藤田嗣治が一体となり建てた現県立美術館(平野政吉美術館)から移設されました。これは、世界に誇れる貴重な文化遺産を崩壊させる、非常に愚かな行為であり、一秋田県民として、強く非難致します。
    (2013年8月31日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、建物を活用を検討していながら、2013年6月30日で閉館扱いとなりました。
     平野政吉と藤田嗣治が一体になり、実現させた現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、後世の人々、美術愛好家、若者達、藤田嗣治ファンのためにも残すべきです。
    (2013年8月1日)




     現秋田県立美術館(平野政吉美術館)の大展示室は、「秋田の行事」のためにレオナール・フジタ(藤田嗣治)が教示した展示室です。
     

     ― 藤田は、「秋田の行事」を礼拝堂のような大空間で観るよう助言し、建物の上方から自然光を採り入れ、壁画に降り注ぐよう助言しました。また、壁画を床から1.8メートルの位置に上げ、両端を少しずつせり出して据え付けたのも、臨場感を狙い、藤田がこの絵に最も良い展示方法を指示したものです。藤田の理念が強く反映されている美術館、展示室は後世に伝えていくべきです。
    (2013年5月15日)



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  • 2013.02.23(01:55)|文化||TOP↑
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    昭和30年代の生まれ。
    秋田生まれ、東京都内で
    美術関連の職に就く。
    秋田市在住。
    性別 : 男

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